性について。最近の考え。

●男性性・女性性の話

男性性・女性性という言葉の使われ方が、時折(あるいは使う人によって)そのまんま「男らしさ・女らしさ」に置き換わっている時がある。

「男らしさ・女らしさ」というのは、あまり強要されたくない向きもあろうが、確かに存在した。それが父権社会や母権社会、マッチョイズムやフェミニズム、ホモソーシャルを作ってきたわけだし、男尊女卑や女尊男卑、男女差別や男女平等を生んできた。

けれど男らしさ・女らしさは男性性・女性性に起因している部分があるにせよ、男性性・女性性そのものではない。そもそも男性性・女性性は誰の中にもある。

男性性は積極性、能動性、獲得していく性質、比べる性質、増やす性質等で、その本質は突き詰めれば「愛」になる。

女性性は消極性、受動性、受け入れる性質、選ぶ性質、減らす性質等で、その本質は突き詰めれば「力」になる。

人間の行為の大半はこの二種の性質のミックスになっており、社会も主にこの二種によって構成されていることは確かで、自分が男性性・女性性、どちらをどのような配分で発揮して社会に参画しているかは、その都度チェックしてみるといいと思う。

誰の中にもある男性性・女性性と、所詮は男性ホモソーシャルが生み出した男らしさ・女らしさを混同しないでほしい。


●男女と性的少数者の話

LGBTQの話題で違和感があるのは、「殆どの場合、性をどのように捉えるかという視点が抜け落ちていること」だと思う。

従来的性観念は「男と女」がベースになっている。男らしさ・女らしさ、異性愛・同性愛といった考えも「男と女」で成立している。

LGBTQでいえば、LGB辺りまではとりあえず「男か女か」というくっきりした区分けに準拠しているケースが多い。

しかしTQ辺りになるとこの「男か女か」というくっきりした区分けがあるから苦しくなる。Xジェンダー、Aセクシュアル、半陰陽等もそうで、性の垣根が悩みを助長している。

あるいはT(トランスセクシュアル、トランスジェンダー、トランスヴェスタイト)辺りであれば、自分の所属を決めたい、性を適合させたい、性の束縛を感じつつも「性の秩序」に参加したい意欲がある人は多いかもしれない。半陰陽の人とかもそうかもしれない。

けれどそれは結局のところ「性の秩序」を前提としており、「男と女」という従来的性観念にくみしている。せいぜい「男と女とそれ以外」という観念にとどまる。


真の性的少数者はこの枠組の外にいる。いわゆるLGBTQではなく、そういう人達がアンチテーゼになる。そしてこれらがアウフヘーベンを起こし、「性表現は個性の一つ」という境地を社会全体として目指すべきだ。


●そうすると母性は?

母性というと情緒的母性が思い付くと思うが、これは「男らしさ・女らしさ」同様、男性ホモソーシャルの産物でしかない。他にも生物学的母性と法的母性がある。

人類は現時点で飽和状態で、生物としてこれ以上繁栄する必要はなさそうだが、そうはいってもそれは自然が決めること。生殖機能や本能がある限り、子を産み育む過程あ生じる。国家や社会、種の存続といった課題には興味はないが、人間個人の幸福の発露として、この「過程」はまだまだ必要なようだ。

ただここだけはどうしても、産む機能を携えた人=生物学的母性に頼らざるを得ない。現代語に訳すと「年頃の女性」ということになるかもしれないが、これだと不妊のように望んでも得られない人、逆に望んでいない人、責任ある意志決定ができない人や未成年もごちゃ混ぜになるので、「生物学的(あるいは医学的)見地に基いて認められ、かつ本人の自由意思により希望する場合、または本人の自由意思が確認できない場合」等と要件と整えた上で法的母性を付与すべきと考える。法的母性は「二つの生命を持つ人」でもある。

そして母性以外の法的な性は、男性も女性もそれ以外も廃止する。これがベストな男女両立社会(男性性と女性性の正しい運用)に必要な措置の一つだと思う(他には「母子を家族の最小単位にする」「BI」「多夫多妻制」「家督相続法人」等の導入が必要)。


●性表現は個性の一つ。

性は「法的な性」以外にも、「心の性」「体の性」「社会的な性」「性愛の対象」「性表現」といった側面があると考える。またこれらの要素は「男か女か」だけでなく、無性、中性、不明、ゆらぎ等がある。これらの総合評価で「自分の性」を決めたいというなら、それはそれで一つの自己表現になるので、私はいいと思う。

ただ将来的には「性の秩序」を打破し、

・個人として尊重されること

・母性を二つの生命と見なすこと

を望む。

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