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アブストラクトに組織を想う

例えば、"組織と組織でアクションに繋がるようなコミュニケーションをする際には上を通す" ことを暗黙的でも明示的でもルールとすると、組織のなかにいるイチ個人としては組織間のコミュニケーションをするための情報や裁量がないと思いこんでしまい、自分のアイデンティティや行動範囲が自組織に閉じ、それがより "組織 vs 組織" の構図を強化する。

というのがあるとしたら、その情報と裁量を持ってる人と持たない人では”私”ないしは”私たち”の範囲がどこまでを指しているかが違うような気がしてる。

とはいえ、おしなべてみんなをフラットにして情報と裁量を揃えようは初手としてはとっても過激。

何かしら不満を持ってるときにはその対象の良いところに気づきづらくなるけど、長い時間を掛けて総体として最適化してきた結果が今の形という見方は歪めないほうがよさげ。

今を認めつつ、変化を持ち込むためにはどうするか?

まずは(事実に近いかもしれない)思いこみが解かれる方向に向かうことをどう支援するかかな。

組織間の個人を繋いで、ひとつの目標を一緒に目指す機会をつくる。

人の体だと、健康を保つために血流をよくするみたいな感じだけど、この場合は情報(意思)の流れをよくするイメージ。

そうすると、今の木構造を主としながらも、それを構成する個人同士がネットワーク構造をも構成するという構造を併用できる状況になる。

あとは、そのどっちに傾けるかの度合いを状況に応じて調整すれば今よりもっと良い形で最適化する方向に流れるはず。

このときのポイントは誰と誰を繋ぐか(繋がるか)。それは情報(意思)の損失がもっとも少ない組み合わせとなるのがひとつの指標。

という話を社内でとあるお方と、そのときは情報理論の観点(理解は追いついてないけど)でお話ししたことをきっかけに、ふと思った。

個人的にはフラットなネットワーク型至上主義みたいなスタンスなんだけど、それをただ推すのは暴力的で、今を大事にしてたり、そこに成功体験や信念を持っている人たちとわかり合う機会を自ら減らすような行為なんだろうな。

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