このへんがほんとの○○なのだなあ。。

この時間から作業とか読書前に日記とかしてるとちょっとモッタイナイ罪悪感があるのだけれど昨日も忙しくて日記してない不満のようなものがあるので軽く(それにしても昨日の朝切った右人差し指の傷にあててる絆創膏がうざったい。。)。


昨日もあたらしくはじめたバイトで遅くなった。作業が終わったのは19時半ぐらいで帰ったのは20時半ぐらいだったか。もう疲れてて「めんどくさい」が先行してたので特に料理する気もなくシャワってガラナとウイルキンソンジンジャーの500ml入りを2本飲んでどん兵衛袋麺を食べて満足する。油揚げと天カスとネギをたっぷり入れて。

炭酸飲料の方はバイト中に飲みたいイメージが出てたからそれでよかったのだけど食べたものの方は栄養とかちょっと不安てのもありつつ普段から「栄養は足りてる+なんとなくジャンクなものが食べたかった」のでこのへんで落ち着いた。ジャンクなものが食べたかったのは「炭酸飲料が飲みたい」が先行していたからだろうか?結果的に酒とか飲まずに満足したようだけど(まあでも風呂あがりに冷凍庫に入れてるウイダーinnウイスキーをふた絞りぐらいは飲んだか)。


あたらしいバイトの方は昨日ではじめてから一週間になったのかそういえば。

火曜ぐらいにようやく全体を一周して全貌が見えて、ある程度主要なところも決まったので今回はある程度効率良くコース組めるかと思ってたのだけど結果的に遅くなった。。歩合なのでコレでは時給換算するとだいぶアレゲ。計算すると悲しくなるけど2600円 / 5h、か。。「慣れると時給1500円超えるようになるよー」につられてやりはじめたのだけど。まあ最初はこんなもんか。

いくつか反省点も思い浮かぶのでこんど試そうとイメージトレーニングしつつ、そう言うのとは別に周ってるコースからいろいろと気づきがあっておもしろい。それもあって「時給換算すると却って損する」にもかかわらず遅い時間までやってるのかもしれない。


周ってるコースは二子玉川の裏のほうなんだけど、このへんは普段はいったことがなかったので「こんな感じだったんだあ」て驚きが新鮮。大きな家がけっこうあって田園調布とか三軒茶屋の山の手のほうを想わせる。日本には山の手文化があるのでお金持ちは山の手に住むぽい。ブラジルだと逆に低地に住むそうな。

日本の山の手文化は湿気との関係なのかな?山と湿気・雨の強い日本では盆地では湿気・水がたまるので嫌がられ高地が好まれる?とか思ったのだけどそういうことではないみたい。


山の手 - Wikipedia 

本義は低地に向かって、多数の谷の浸食を受けた台地が入り込んだ地形を持つ地域についてを指す言葉である。また手に似た台地であるためだという俗説があるがこれは誤りで、方向を表す(上手―かみて・下手―しもてと同じ)。低地である下町に対し、山側(山の方向)にあたる台地を山の手という。


東京においては、歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域 = 朱引、もしくは大江戸)において、江戸城の近辺と西にあたる高台の山の手台地を幕臣などの居住地帯として開発した。山の手の代表的な地域は、麹町・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・本郷・小石川であり、地理的には武蔵野台地の東端にあたる。日本の近代化とともに山の手はさらに西へと広がり、第二山の手と呼ばれる一帯が形成されていき、近代日本のはしりともなった[1]。 山の手はその後も変質を重ねており、地域との境界が曖昧になっている点も見られる。山の手でも赤坂や麹町や麻布にも町人町が広がっており、一口に江戸市街、特に山の手と言っても非常に複雑な形相を示していることが特徴である。

東京市街の変遷 - Wikipedia 

明治時代の山の手は、旧江戸市街地の範囲内で、地形の山の手(武蔵野台地の東端)にあたる住宅街である。地理的には現在の新宿区・文京区・北区の台地(武蔵野台地の延長である豊島台・淀橋台・関口台・小日向台・小石川台・白山台・本郷台)から千代田区九段・番町・麹町地域までが山手地域にあたる。町境や住居表示の変更により現在の町名では正確には示し難いが、大雑把には旧東大久保村や牛込区・四谷区(現新宿区大久保、牛込町、四谷見附)にあたる地域、小石川区(現在の新宿区と文京区にまたがる、現後楽園及び飯田橋近隣)、本郷区(現文京区本郷)、麹町区の番町・麹町地域(現千代田区一番町などの番町地域、麹町、紀尾井町の一部)。山の手では旧幕府側の幕臣などの構成者が政府により追い出され、その跡地となる屋敷を接収した維新側大名家、財閥関係者、文化人、ブルジョワと呼ばれた新興資本家などの当時の中流から上流の人々が集まって住んだ。住民の多くが入れ替わったため、言語や文化の面で江戸時代と明治時代の間に大きな断絶があると言われる。
一方でその他の地域(下町など)は江戸期に集積された伝統文化を維持しつつ、新たなサービスの対象を受け入れたため、江戸期の文化と明治期の文化に連続性が見られた。典型的な例は日本橋・神田などが挙げられる。ほぼ住宅に特化した山の手は独立した都市としては成立できなかったが、谷が入り組んだ地形のため、山の手からを坂道を降りればサービスが受けられる町が存在し、利便性は高かった(東大久保・牛込と新宿駅界隈、番町・麹町と九段・神田地区の関係がその典型)。また、主要な街道などは山の手の尾根の中心を通っていたため交通の便もよく、輪をかけて利便性を高めていたともされる。


もともとは武家が好んで、武家がこういう場所を好んだのは高台の方が回りが見渡せ防御・警戒できるからかな。武家だと歩きでもなく乗り物もあるし。

二子玉川のお屋敷街も傾斜の強い坂道な場所に建っていて、「年取ると却ってこういう場所は不便なのでは?」、とかおもうのだけど彼らは阿呆みたいな豪邸に住んでるのでずっと乗り物には不便しないのだろう。個人宅に宅配ボックスが4つとかあったりするし。


てか、「このへんがほんとの二子玉川なのだなあ」とかあらためておもった。「ほんとの」ていい方も変だけど。いわゆる高島屋ショッピングセンターを中心とした印象というよりは、長い地元民的には丸子川に沿って二子玉川な生活が形成されてるのではないかと想わせる。

丸子川周辺の住宅では川の上に一つ一つ橋が渡してあって、狭い道路と生活用の短い橋が多くある様子に鎌倉に似てるように思ったり。もうちょっと上流だと桜が植えてあって桜の季節には川面に映る桜の様子が楽しめたり。


二子玉川という地名は生活実感としては丸子川と野川のことを指すのではないかと思ったりする。


もともとは多摩川のこのあたりが江戸期に二子の渡しとして栄え、時代が下ってからは玉砂利の採石場として栄えたのでそれにちなんだ地名になっていったようだけど。

なので、このあたりの名物・印象としては最初は「渡し」→「それにちなんだ宿場、料亭、飲み屋街」、次に「採石場」→「それにちなんだ飲み屋街(新地)」ということだったはずなのだけど東急電鉄の開発と高島屋ショッピングセンターによってずいぶんと印象が変わったぽい。

最初にバラ園がたってその後に遊園地となり、ナムコワンダーエッグなんかが建って、それらもなくなって跡地にいまのような高島屋ショッピングセンターの拡張が、という感じだろうか。


江戸期には渡しに加えて桜の名所としても有名だったようで広重かなにかに二子の渡しの花見の絵があったようにおもったのだけど見つからず。

そういった経緯があったので桜土手を東急が壊すことを厭うた住民も結構いたみたい。現在は名残的にすこし桜土手が残るぐらいだけど。



二子の渡し - 二子玉川郷土史会 

佐藤敏夫著「瀬田・玉川誌」には「ここを二子の渡しというのは、川の向こうに二子村があって、その昔行き倒れの旅人の世話をしていた双子の兄弟が、その亡くなった人の所持金をもとにして舟を造り渡しを始めたことから名づけられたのでした」とあります。



多摩川の渡し : 世田谷 玉川村名所物語 http://marukokawa.exblog.jp/2359912/


もしくは大山詣での街道

http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-896.html






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