花惑い

一つ前の日記で小野小町の句を引用したけど、考えてみるとこれって小池さんとこの惑い?というか「はやくしないと過ぎていくなあ。。」てのと似てるのかなあ、とか思いながらあらためて句の意味を確認していた。


桜患い|小池麻央|note https://note.mu/suiseimondou/n/ndedb8d548a8b

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに  古今和歌集の部屋 http://www.milord-club.com/Kokin/uta0113.htm


 花の色はうつろってしまった、ただいたずらに、この身が世を過ごす長雨に物思いにふけっている間に、という歌。この歌が広く親しまれている理由は、百人一首にも採られている伝説の美女の歌という以外に、歌の持つ柔らかなイメージにあるように思われる。
  "ながめ" が 「眺め」と 「長雨(ながめ)」の掛詞であると言われなくとも、また 「"ながめせしま"ってどんな島?」と思ったとしても、漠然と意味が伝わる。また言葉の音としては、"うつりにけりな" の「な」は女性的な響きを持ち、 "わがみよにふる" の 「み」と 「よ」はなだらかにつながり、"ながめせしまに" は軽やかなリズムを生み出している。
それに加えて、この歌の重要性は歌の発生する場を追体験しやすい点にある。それぞれの言葉は浮かんだ時点では適度にばらばらで、近くの言葉とは結びついているが、歌になるまでにはならない。 「花の色」-「うつる」、「眺め」ー「長雨」-「降る」-「経る」がそのあたりである。それが 「世にふる」→「わが身世にふる」となるあたりから凝固しはじめ、「わが身」は 「花」と 「眺め」を引きつけ、「世にふる」が 「いたづらに」を引き出して、さらに 「うつる」に手を伸ばした時点で、歌となるべきすべての要素が揃う。後はそれらが前後しながら次第にそれぞれの位置を確立し、ニュルっと歌が生まれ出る。

他人様の説明を画像まで借りてってのはちょっと気がひけるのだけど、この画像のとこがいちばんわかりやすかったので拝借。


自分は詩をつくるのは未だ得意ではない(なんとなく最後のアタックが決まりにくい)のだけど、料理と同じである程度論理的に説明されると構築できていくのかなあとかおもったりする。こういうの眺めつつ。

解説に従うと最初に「花の色」-「うつる」、「眺め」ー「長雨」-「降る」-「経る」というタームが漠然と浮かび、それをつなぐ述語的になものとして「世にふる」→「わが身世にふる」あたりが添えられることでストーリーができはじめ、それを洗練させていった感じだったのかな。

よくわかんないけど詩作の洗練、鍛錬というのはこの述語の過程、と、最後の洗練部なのかなと思う。洗練部だとマンネリな部分を剪定してく感じかと思う。いけばなやミニマルなものでやるのと同じように、余白、余韻を用意し受け取る側の想像力に任せる。


そのあたりのことは吉野弘さんも書いてはった(「詩の楽しみ」)。

言葉は、その言葉で名指したものを、個々の形状とは切り離し、集約した像として喚起することを可能にします。海の例で言えば、いろいろな所で見た特定の海の姿とは別に、それらに共通な、海の映像を呼び起こす(それは人によってちがいますが)はたらきです。このはたらきがあるので、私たちは、言葉で、ある事物を話題にすることができます。猫という言葉はどこの猫ということとは無関係に、猫一般を指すことができます。実際には、たとえば自分の家で飼っている三毛猫を思い浮かべるかもしれませんが、それとは別に、猫と名付けられている動物の像を呼び起こすことができるわけです。これが言葉の長所なのです。
言葉で名指したものはすべてわかっているつもりという、この日常的な言葉意識は、言葉によって行なう物の見方や表現法にも類型化を招き入れるようになります。たとえば、よく晴れた空のことを"抜けるような青空です”と表現して、それで満足できる物の見方です。
こうした類型化した物の見方を嫌うというところを出発点にして、日常的な言葉の使い方から離れるという段階が、つぎに考えられます。簡単に言えば、自分の目で物を見直そうということで、わかっているつもりのこととか、類型的な物の見方とは質のちがう平面に出てゆこうということです。それを、ここでは仮に文学的表現と呼ぶことにします。
対象を個性的にほめること、それが"詩の方法”の実質だということが、この詩によっても、おわかりいただけるでしょう。
詩を書きたくなるいろいろな場合のうち、とくに強く私の気持ちが動くのは、簡単に言うと、"何かに気づいたとき”です。"何かに気づいたとき”というのは、それまでの私の物の見方や感じ方に"揺れ”ないし"ずれ”が生じて新しいことに気づこうとしている状態、あるいは、それまで漠然としてわからなかったことの意味に気づく状態ということができます。


「何かに気づいたとき」というのは自分が日記書きたくなる時のそれと同じなのだけど、マンネリな表現を避ける様を「個性的にほめる」と表現するのはうまい(←不遜)。


類型化した思考やクリシェ的な反応-感性-理知に対してのいらだち → 量産型桜へのいらだち・違和感はこのあたりにも


「桜や椿が愛されるのは散る姿が美しいからだ(あるいは舞い散った花びらに残心する)」みたいなのがあって自分もそんな感じで地面に舞い降りた花びらの様に花の川を想ったりするのだけど。


花が咲き始めるとき憂鬱になるとき - 関内関外日記(内) http://goldhead.hatenablog.com/entry/2015/04/04/192235

花に国境はないけれど〜花見の前にサクラについて知っておけ〜 - 関内関外日記(内) http://goldhead.hatenablog.com/entry/2015/03/31/194530

花見の季節も終わったし、‘染井吉野’でもディスっとくか。 - 関内関外日記 http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20120427/p1

よく素人さんが、桜にのめりこんだりすると、ここにある「楊貴妃」とか「鬱金」といった桜をじっと見つめてから、その名前を覚えようとしますけども、無理や言うてんです。まず、基本の山桜、彼岸桜、大島桜を知っておくことが大事なんです。たった三つ、知っておけば、それでいいんですから、簡単です。

「ソメイヨシノは大量複製クローンでね」という話はミニマリズムに合わせるとミニマルな反復であり現代アート的でもあるのかなあとか思ったりする。日本列島改造論の頃から植えられたというのはまさに後期近代の象徴であり、はからずもそれを日本がやっていたというところでこういうのこそクールジャパンというか「日本変だよね―」て(゚⊇゚)ガイジソー視点なのかなあとかおもったりする。自分が接してきた外国人はふつーに「ああ、桜キレイですよね」ていうぐらいになってたけど。

欲望に加えて正しさとか美的感覚もクローンされてる。まあ美的感覚なところは欲望に等しいのだろうけど。桜ということだと三島なんかはもろにブルーシート毛嫌いするだろうなあとか。耄碌した三島が大日本帝国鉢巻に軍服+日本刀で上野のブルーシートカラオケBBQ花見客に突っ込んでく姿を小島信夫がペーソス交えて描いた小説を妄想する。いまの感覚だと桜坂とか歌っちゃうのだろうしソレハソレでいいっちゃいいけど。


ソメイヨシノ-桜とクローンな話で蟲師の「花惑い」を思い出す。

かいがいの : 蟲師 続章 6話 「花惑い」 海外の感想 http://blog.livedoor.jp/kaigai_no/archives/38743069.html

ストーリーラインとしては絶世の美女を死なせたくないがために「接木して」生きながらえさせてきた庭師の話で、上記感想にもあるように表面的にはサイコパス的なものなんだけど死や複製というところがそんなに特異なものでもなくなったら単に「愛」-「愛でる」という感覚だけの話なのかなあとか思ったりする。あるいはそれと人の世の理が合わないことの悲しさを終盤のサクラの舞い散る様で表した。

(18分辺り)


LGBTあたりで「同性愛とかトランスとかふつーになってしまえばカミングアウトも何もなく生活の中のふつーとして流せるようになるだろうしそれが理想」みたいなことをよく見るけど、あのあたりの感覚ってクローニングがふつーになったとき≠庭師が接木をふつーにするのと似たようなものなんだろな。

そういうのはそのままスチームパンク的な世界に通じるのだろうけど(なのでishさんとかは自身をサイボーグて言ってた)。


現在の世の中だと死ぬということが特別な意味をもつのでたぶんそれに近い異常であるセックスが正当化されたビザール(異常・猟奇)としてみょーに関心されるのかなと思うんだけど、複製ほかで死が超越されるとたぶん人は死を弄ぶようになるのでセックスとかはそんなに関心なくなるんじゃないかと思う。

そういう意味で攻殻機動隊原作で素子が電脳でレズってた場面なんかはローテクな愉しみであり、たぶん現代人がスチームパンクとか愛でるのと似たようなものなのだろうけど(ariseでも中国茶様のもの飲んでるし)。

「生/死の代替としてセックス(最小の生死としてセックスがある)」ということに類していうと食べるという行為もほんらいはほかのものを殺し食らっているわけだから「死→生(あるいは変化する)」であり、拒食症のひととかはたぶんこのあたりも気にしてだんだん食べなくなるとこもあるかなと思う。まああれはふだんの生活のなかでなんか落ち込むこと/認識を変化させるような事件があって生活のリズムが鬱ってきたりするとそのリズムに合わせて積極的な行動をする気がなくなり、積極的な行動のひとつとして「他の生を食らう(取り込む)」あるいはたんに「取り込む」→「排泄する」ということが億劫になるのでやめていくってのもあるだろうけど。そういう意味ではやはり緩慢な自殺なのだけど、現象あるいは物象としての肉体、と、その営みの否定であって自我あるいは理性や精神としての自身は否定してない(むしろ保つために食べるのを拒絶するところもある)点では全体的には生きようとしてたりもする。

まあでもだいたいの現代人は食べるときに「殺す」は意識してなくてたんに「食べる」「おいしい」てだけなんだけど(逆に「おいしい」と特に感じられなくなったとき「あたし、なんでわざわざ食べるということをしてるんだろ?」とか思う。


さておき、


クローンを愛でるリリシズムというとエヴァとその元ネタ的着想のひとつといわれる鶴田謙二「夏子の思い出」(「スプリットオブワンダー」)とか思うけど、あとがきをみると

クローン再生:特定の有機固体の遺伝子を培養し、その個体を再生させること、SFの世界ではまるで植物の培養のように扱われるが、それほど気楽なものではない

とかある。


でも、植木屋が接木をするようにクローンとかな世の中がこないかなあとか思ったりする。物理的にクローンしてないだけでどこもかしこもクローン的な世の中なのだし、人の生命だけ複製はだめ、とするのは却って人間中心主義であり理神教極まった感じなのかなとか。

まあ気軽にクローンな世の中こないかなってのは義体なんかも思うままだからってのがその前の理由にあるわけだけど。


ゲーテが生きていたらこの辺りはどう思うだろうなあとか思いつつ、目の前の花に惑う。


(ふせんが散った花びらとすると、書は樹か花か)


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αでもβでもなくΚブロガー「正直に本心を吐露すること自体は悪くない。だがそれをしてよいかよくないか、してよい相手かそうでないか、の違いは厳として存在する」
コメント (10)
その前段階にかの子の奔放とも言える恋愛のかたち、そしてかの子のそれも含めた岡本家のあり方が太郎の人格形成に影響したわけですが、、これもかのこの作品、あるいは語りだけからだと耽美的に正当化されるところがある印象ですが、事実関係だけ見るとこんなかんじだったようです(漫画。下の方に岡本かの子夫妻の話があります→ http://mavo.takekuma.jp/title.php?title=35 切り取られた言葉としては格好良いし生き様としても当時の女性としては奔放に思えるのですが、悪く言ってしまうと文学的なものにあこがれるミーハーなワナビーで作品自体はそれほどクるものはないです(岡本かの子著作集なんかはちょこちょこ読んでるんですがそんなにおもしろいものでもない。現在のところ)。ただ、それも感じ方が変化してくると違うものが見えるかもなので保留なのですが。(ドラマは見たことないので見たかったです)
現代アートは言ってしまうと文脈とコンセプトで売っている作品と、作品自体に有無を言わせぬ強度があるものと別れるように思います。デュシャンのそれなんかはコンテクストを売りにするものなので便器そのものを置かれていても何の意味もないですし。そうすると特に作品的強度がなくても「これはアートだ」ってもっともらしい語りをするとアートとして見られてしまう(その語り自体がアートになる)そういうものは見ても狐にばかされたような感じでそんなに満足感はないですね
なので、テクストとしてのアートが受け手に届くまでに作家、ギャラリーや展示会場のプロモートする側といった2つのメッセージの送り手がいて、特に美術館は学芸員の特徴が出やすいコンピレーションアルバム的なものになりがち(ギャラリーの方が作家の流れを定点観測しやすい)みたいなことは先日もアート系のひととうなうな話してました
少なくとも小説の方は退屈な感じでした。ただ、それはストーリー的な面で、文体やモティーフなんかは自分が変わればしみてくる滋味もあるのかなあとか思います。短文、あるいは詩的なもののほうがよかったような。 | 美術館も場所や学芸員に依るのでしょうけど、傾向として学芸員の色が出てしまう/継いてしまうところがあるように思います。個展以外の企画展的なものだと特に。
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