正月、酒を飲む



遠山の雪も別れてしまつた人も  〔種田山頭火・山行水行〕



ひさびさに満足の行く酒飲み会ができて、そうするともうそれで完成されてしまってるので特に記すことでもないんだけどなんとなく。



「みょーに純粋になって」というのは言い表しがたいんだけど、なんとなく酸いも甘いも噛み分けた大人がみょーなところで純粋になっていくというのはホドラーが最後に風景画に還っていったのと似てるのかなとか。


空の青さとか光 - 色彩のうつくしさとかありがたさとか、そういうの。


雲はそれだけでリズムを刻みダンスを踊っている。澄み切った青を背景に。大気はめぐり光が踊る。


年をとると段々とそんな感じになっていくのかなとか、あるいは、自分もそう感じるようになってきたのは歳を重ねたということなのかな、とか。



そして、そうなってくるとけっきょくは通じ合える友と語り合える時間がなによりも財産になって、酒を飲むというのはそういう愉しみなのだなあ、とか。


うつくしい日々: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/409837761.html

そうやって出来得る限り完全に作り上げた生、自分という作品の前に既存の価値観や権威は意味を失いこわいものではなくなる。
それでもなお、悲しいことはある。
こわいものはなくても
かなしいことはある


「(この世の中に)こわいものなんかないけれど、悲しいことというのはあるんだよ」と父は言った。
私は返事ができなかったように記憶している。
生きていく上で悲しい事はあって、親しい人、良い習慣、馴染みの店、思い出の品、あるいは大いなる期待、そういう良いものが失われる時は悲しい。それは良いものが良いものである故に当然だ。



人間も六十を過ぎるとその年月の間に得たもの、失つたもののことを思ふだけでも過去を振り返り、自分の廻りを見廻すのが一つの自然な営みになり、これは記憶も現在の意識も既に否定も反撥も許されなくなつたもので満たされてゐることであつてその中でも大きな場所を占めてゐるのが友達である。

そして、その悲しさがあるがゆえに、大切なものが愛しく、うつくしくみえるのかな




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