「そう決めた理由」と「寄り添う」こと

また別に詳しく書くかもしれないけど気になってる命題をメモ的に。


介護や教育など、あるいはサービス全般もしくは仕事全般なんかで、仕事量が過剰になると感情を切断し気持ちが持ってかれないようにする処理がある、一方で、そういう処理でシカタナイする前に自分なりにその仕事への向き合い方を変えてやっていこうとするやり方がある。

どっちが良いとかでもなく、後者を選ぶときにも人それぞれのストーリーに基づくだろうからなにが良いとか正解とかないのだろうけど。

そういうとき、そう決めた理由、みたいなの。


もうひとつ


ヴェイユ、あるいはホドラー、夜と霧とかでもそうだけど。限界状況、不幸の限界で転回し逆に世界を信じるようになる、ということがある。

それは経験的に識っているのでそれ自体は別に良いのだけれど、そうなる際、そうなる(決めた)理由、みたいなの。

ヴェイユの解説本では、「そこで美が見えるようになるから」「神を実感するようになるから」「目の前にあるObjectが正方形として測っても厳密に定義付けられなくても、頭の中に既にして『これは正方形だ』と浮かぶのと同じように、神の存在を感じるから。たとえ目の前に見えなくても、背後にいることを当然とするから」「不幸の限界においてイエスを求め救われるのは、イエスがわれわれの不幸に寄り添ってくれた(われわれはイエスの兄弟である)ということに安心するから」、ということになる。

この解説は感情先行の印象批評的なところがありそれほど信頼してないんだけど、ヴェイユの言葉としてそういうものが残っていた、というのは確かなのかもしれない。断片にせよ。そこから解釈したもとのようなものがあるのだろうから。


人はほうっておくと下方に流れていく(重力に支配される)。しかし、ある時点で転回することによって世界≠神の恩寵を感じるようになる。世界のキセキを。キセキのような美しさを。


その手がかりとなる機構、センスに関わるものを「愛」と呼ぶ。



それはそれとしてわかるのだけれど、、不幸の限界において美を感じるようになる、というのはどうなんだろう?と自分は思ってしまう。


あのとき、、離人症のようになりつつ雪が空間に止まり、世界が、世界の美や時間が自分とは別のところで展開しているということを感じたとき。自分にあったのは美を実感として感じる、というよりは逆に美から疎外されている(けれど「これはほかのひとにとっては間違いなく美しいと感じる瞬間なのだろうな」)という実感だった。


それからしばらく季節を経て、また死にそうになって、そこから回復した瞬間に世界が輝いて見えたのは希望の徴候が見えたからであって不幸のどん底に在ったからではないように思う。


自分がそんなことを思うのは、自分自身はもうその季節を過ぎたからその問題は特に考える必要もないことのように思うんだけど、不幸のどん底にあって、自分自身を嫌いになっていていまにも死にそうな人が、そこから立ち直るにはどういった機構が必要なのだろう?と思うから。


それもけっきょくはそれぞれのストーリー、経験に基づいた実感 - 腹をくくるという感覚、あるいは転回が必要なように想うし、それは個々人の経験にもとづくだろうから他人からはわからないところかもだけど。




論理的、理性的、理知的には解けない人生の課題、難題のようなものがそこにはあって、そういうとき哲学の役割とはなにか?とふと考える。


ヴェイユによるとそれは「難問を前にしてじーっと待ち続けることだ」ということ(観想)。


それは他人である自分からはどうしようもない不幸にある人を前にただ寄り添うことに似ているのだろうか。





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