(長谷川郁夫「吉田健一」から)日本の「近代」文学界隈とその時代

引き続き「吉田健一」を読んでる。「読むのに流されてる」「留めず流されるように読まないと量的に流せない」というのもあってか日記する前に読もうってかんじで読んでるのかもしれない。でもたまには読みつつ思ったことを書いてとどめて置くのも良いかなと。セーブポイント。


吉田健一 長谷川郁夫著 死へ向かう苦しさと美しさ 日本経済新聞

こちらのほうがわかりやすいな

『吉田健一』長谷川郁夫 - marginalia http://d.hatena.ne.jp/abraxasm/20150424/1429863758

(以下長いけどわかりやすいので引用)

吉田茂の長男で流暢に英語を操るケンブリッジ帰りの文士。無類の酒飲みで大食漢。妙にくねくねした身ぶりでケケケッと奇声を発し、あたりかまわず大声で笑った、と周囲にいた多くの人が吉田健一について語っている。充分に奇人伝の主人公になれる資格があるように思えるが、著者が吉田健一について、このように詳細かつ愛情に溢れた評伝を著すにいたったのは、その出自や奇癖が原因ではない。その晩年、編集者として近くに身を置き、「ランチョン」で謦咳に接することができた著者には、日本の文学界において到底正当に遇されたとは思えない不世出の文学者を、本来そこに置かれてしかるべき場所に位置づけるための標石としてこの菊版二段組650ページの大著を著したにちがいない。それほどに、この本は著者の吉田に寄せる敬愛の念と、その文学に対する深い洞察に溢れている。

学生時代に出版社を興したというから、本に詳しいのは当然だが、吉田の名が出てくる本にはすべてあたったのではないか、という気がするほど、河上徹太郎、中村光夫をはじめ、大岡昇平、三島由紀夫等々親しかった文学者が吉田との交遊、因縁について語った文章を片端から引用し、彼らの目には新帰朝者である吉田がどう映っていたかを多角的な視点で描きだしている。日本の文壇とは無縁で、親しい仲間もおらず、先輩文士に混じって黙々と酒杯を重ねる若き日の健坊の孤独の深さ。やがて師友を見出し、少しずつ翻訳をものし、批評家となってゆく。吉田健一という特異な位置に視座を据えた日本文壇史という側面もあって、なかなか読ませる。

飲み仲間であった福田恒存や大岡、三島などが次第に流行作家となってゆくなかで、なかなか自分の著書が出せない吉田の焦りや鬱屈については抑制された筆致で想像するにとどめ、周囲の理解と無理解を書誌学的な態度で客観的にあぶり出し、いかにその文学が異端の位置にあったかを読者に想像させる。それは『英国の文学』一篇が、大岡信や篠田一士といった若い人たちによって圧倒的な支持を受けるまで、吉田が甘んじて受けなければならない不遇であった。

しかし、本人は文壇的な不遇も、金銭的な不如意も一向に苦にしない態で、「乞食王子」を名乗り、復員した時のままの水兵服と軍帽でノンシャランと町を歩き、モク拾いの様子を文章に綴るなど、どこまでも自分流の行き方を貫いた。このスタイルは、原稿が売れるようになっても変わらず、金があれば飲み、食らい、旅をした。その恬淡とした暮らしそのままの食味随筆は人気を呼び、版を重ねていく。「酒宴」にはじまる、小説ともエッセイともつかない文章スタイルは、時に怪談めいたファンタジー味を帯び、後の「金沢」に至って吉田文学の円熟期を迎える。

河上の故郷岩国や、酒田、金沢への毎年の旅行で何処の何を食べ、何という酒を飲んだかまで、克明に調べつくし、書き上げている。日本の私小説的風土を嫌い、健康でまっとうな生活者が正直に生き、勤勉に働いた結果としてある吉田健一の文学を全的に肯定した評伝である。


(引用終わり)


少し前にも書いたけど、この本は吉田健一評伝というか、その性格もありつつあの時代のあのあたりの日本の文学界の様子、繋がりを知るのに適してる。「あのあたり」というのは吉田健一や三島由紀夫、福田恆存らが中心となっていた鉢の木会のことで、そこに連なる小林秀雄、青山二郎といういわゆる「青山学院」的なもの。

岩波書店を中心とした戦中→戦後マルクス主義的な傾向の論壇、「世界」族でありライトサヨク的なものに対する保守的なもの。そういうものは日本の教育や学術的には傍流ということで詳しく語られることもないのか、このあたりの繋がりも当時を知らなければなかなかわかりにくかった。

未だ理解がおぼろげではあるけれど、日本の批評・文芸界隈は、明治の西欧移入(ドイツ観念的なものを中心としたそれ)から漢籍を中心としつつも夏目漱石に代表されるような西欧移入をしていった。そのあたりでおーざっぱには日本的な情緒と西欧的な個人主義・理性との間での融和というか、ハイブリッドのようなものをうまく見出そうとしていったのが日本の近代だったのだろう。理性ということだと日本は長らく漢籍を手本としていたからそれを継続しつつも西欧的な合理性にアジャストしていく感じの。


西欧的な合理性というのはいまの我々的には数学を中心とした「用の学」であり、その出自は中東←インドであることがたとえば「16世紀文化革命」における記述なんかから分かるのだけれど、戦前から戦後にかけての日本ではそういったことがわかっておらず、まずもって「西欧の進歩・近代は独自に発展してきた」なアレを中心に「西欧のそれはすばらしい」ということがあったためか「西欧の近代、あるいは近代化とはどういうことか?」という内実が明らかにされないまま西欧の近代が賞賛・幻想されていったところがあったようにおもう。中心としてはフランス革命-パリがあったのだろう。そして、フランス革命のイメージも「すばらしい民主主義の目覚め」的なそれで現在のようなビミョーな評価ではなかった(明治維新なんかも)。そのへんは日本だけではなく西欧人もそんな感じだったところもあったのかもしれない。象徴主義を中心とした時代は特に。「近代とはなにか?」がはっきりと措定されないままにそこに「近代」という幻想が重なり再帰的に参照されていく現象。ギデンズだったらその再帰性それ自体がモダニティだみたいなことをいうのだろうけど。


日本の「文学」もながらくそういった曖昧なものを中心につくられていった。そのため「文学とはなにか?」と問うたときに明確な答えが出にくい。また、その中で日本独自の私小説なる形式も編み出していった。私小説はかぎりなく日記語りに近い、というか、「小説なるものは現実にあることを語らず何らかのフィクショナルな物語をつくりそのなかで幻想を展開するものだ」という前提から「私」小説なるものが分けられるのだろうけど、そもそも「小説」に確たる形式はない。吉田健一がはやい時期に「これは小説なのか?」と周りから想われるような、筆者の内省・エッセイと判別がつきにくいモノローグ的なものを「小説」として発表していったのもそういった背景があった、のかもしれない。当人的には「評論よりも随筆のほうが、随筆よりも小説の枠のほうがギャラがよかったからそうした」というところはあったようだけど。


「ヨオロッパの世紀末」なんかは上記してきたような背景からいうとわりとデタラメというか、歴史学的にはそんなに詳らかなものではなく幻想が多い語りということで資料的なものにはならず読み飛ばす対象といってよいのだろうけど、小説に対する吉田健一の態度がこういった背景(それは事実ではなく西欧人の再帰的な幻想に基づいたものだ)を前提としたものだったとすれば、「ヨーロッパの(語る)近代」というものに対してもある程度そういった余地を保留し全面的に肯定するものではないのかなとおもう。じっさい「ヨオロッパの世紀末」はヨーロッパの文明史を歴史学的に語るというよりは、吉田健一がケンブリッジを通じて学んだ当時のヨーロッパの知識人たちの常識としてのヨーロッパの近代、あるいは象徴主義につながる歴史を簡略に語ったものだったようで、語りの主軸は「象徴主義とはなにか?」ということだったようだし。すなわちラフォルグとかマラルメのようなものがどういった経緯で生まれてきたか。


そうかんがえるとまた「ヨオロッパの近代」を読み直したくなり書架のそれを手元に引き寄せるのだけど。とりあえず「吉田健一」に戻ると…。


「吉田健一」の語りもそういったもの、鉢の木会的なものに親和的なひとたちから見た戦前→戦後の日本文学界の話といえる。著者は吉田の信奉者的なところもありちょっと吉田ヽ(´ー`)ノマンセー的なところも強すぎるかと思えるところもあるけれど、岩波を中心とした歴史から無視されてきた小林秀雄たち、あるいは、さらにそこから一段下がる形で過小評価されてきた吉田健一の評価を思うとこのぐらいがカウンターとして調度良いのかなとも思える。


なので、自分としては本書の内容は評論の対象というよりはビブリオ的な「あ、これこういうつながりだったのか。。まだ読んでないからそういうことだったら読もう」的なものになる。知らないことを知れるので知的に満足はするのだけれど、ブログなどで詳しくエントリしようとする際には「(´・ω・`)しかし、このままエントリするとダラダラと長い本書をたどるような内容になるよなあ。。」的なもの。なので、なんだったら今回のこれをもってこの本について多くは語らず自分的な「次に読むもの」メモに留めるのかもしれない。



漱石も読みたいし、堀辰雄も三島由紀夫もドナルド・キーンも読みたい(いずれも未読)。堀辰雄は青空文庫であったのですぐに読めるのは読めるしいまの時期には合いそう。「風立ちぬ」とか。

そして、ああいったしずかなものが読みたくなってる。この本にしてもそうだけど。しずかでうつくしいもの。



長谷川郁夫「吉田健一」についてはこのへんにも詳しい



宮崎駿が堀越二郎と堀辰雄を「ごちゃまぜ」にした理由 http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/gocyamaze.html




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