昨今の右傾化 / 左傾化がハイパーリアルに過ぎないことについて

少しまえにちょっと騒動になった文科省に依る教科書検定騒ぎについてついったでうんたらしてたら自分なりの気づきがあって、今後この手の右傾化論 / 左傾化?論には付き合う必要が無いなあと思ったのでメモ。メモするのはそれ系の考え方を自分だけではなく他の人もしてるようだからというのもあるけど。


ここまでは前フリ。




「現在日本(あるいは世界でも)右傾化・ナショナリズム化が懸念されている一部の保守・反動的な動きは、彼らが懸念するほど深刻なものではなく上っ面の、ハイパーリアルなものではないか?」がメインなのだけど、それについてちょうど読んでいた「ラーメンと愛国」でほかの論者も言っているのが紹介されていた。



このあたりの記述はバウマン「コミュニティ」で論じられていた多文化主義とアイデンティティポリティクスの辺りを想わせる。

かつてコミュニティ(ゲマインシャフト)が提供していたまとまったセットが近代(ゲゼルシャフト)化によって分散されたことにより人々はそれらを自ら集め、組み立てて行かなければならなくなった。

(以下、スタディプラスにメモっていた該当箇所の要約引用)

コミュニティ、コミュナリズムに馴染まない人々にとってグローバル化による国家の統合への意志と権力の緩和は好ましいものだった。彼ら脱領域的(グローバル)エリートにとってコミュナリズムに変わるものはアイデンティティとなる。それらを彼らは選び取り、組み合わせ、暫時的に運用する。しかし、そのような力を持たない弱者はどうなるか?多くの脱領域的な人々、経済移民の多くは力を持たない被雇用者となる。彼らにとってアイデンティティの選択、組み合わせな難しい。というか、目下の生活上の経済的な問題が急務となる。それらにエスニックマイノリティの烙印はしばしば絡んでくるのだが持って生まれた人々はそこにある不幸を見ようとせず改善しようとしない。むしろ弱者同士を嫉妬させ分断統治をしようともする。持って生まれた人々、あるいは現状で同一的な権利を持つ人々は自身の見て見ぬ振りと良心を肯定するために「彼らはそうなって当然(私たちもそうなって当然)」な言葉と認知を作る。すなわち「それは差別ではなく文化的差異」なのだ(cf.正社員はお給料が良くて当然

(引用終わり)


多文化主義的なものもそういったアイデンティティポリティクスの一端であるが、単に「多文化共生」とか浮かれてられないシビアさがある。

スタディプラスに要約した該当箇所より引用)

リベラルを気取る知識層が「多文化主義」を掲げるとき、それは彼らの知的怠慢を意味する。今日の多文化は、多様性を認める/自由を認める、としつつその「自由」にはかつてのコミュニティがセットしていた「安全」が保障されないからである。たとえばグローバルな経済移民(低層)の身分の不安定性、そこからくる経済、生活の不安。リベラル層はそれらに対して基本的人権からの配慮をすべきだがそこは看過する。彼らが思考停止するようになった背景はゲームの流れが変わったことによる。かつて、近代化は管理(→工場仕事などへの埋め込み)を主な規範とした。都市の低層も工場仕事などへ埋め込んでおけば生活の安全、安心が担保できた。知識人たちの役割は彼らに近代的な仕事に怠けず従事する規範を与えることだった。あるいは環境(パノプティコン)を。しかし、経済的背景が変わったことにより工場的な仕事に恒常的な安心、安定が期待されなくなった。ここで知識人、及び所有者はそこから「撤退」を始める。「管理」ではなく「撤退」。「管理」は彼らより下級の経営者にやらせれば良い。彼らが「撤退」した労働環境は彼らによる管理ではなく労働者たち同士による管理を組み込むようになる。それらを経営者も期待するように。必要最低限の賃金の中で。いわゆるサバイバル時代の到来であり日本では90年代以降見られたものがグローバル化している。

(引用終わり)


ちなみにこれらの要約はここの、バウマン「コミュニティ」のタイムラインあたりから読める。いまのところ。

「ラーメンと愛国」についても同様。



最近はスタディプラスに要約メモっておいたら特にブログとかnoteとかしなくてもいいかなあ(自己満足的だし、それするんだったら本をどんどん消化したい / スタディプラスつかってると消化できるし)と読書すすめてるのだけど、今回はたぶんこの後もなんども言及することになるだろうからまとめといた。

大澤真幸、阿部潔ほかの関連図書リンクもあるし。





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