
冒険は、思いがけず始まる
本記事は、MIMIGURIアドベントカレンダー2024のDay15として書いています。MIMIGURIのCo-CEOである安斎の新著『冒険する組織のつくりかた「軍事的世界観」を抜け出す5つの思考法』にちなみ、メンバーが #わたしたちの冒険 というテーマで様々な記事を書いているので、是非ご覧ください!
またこの季節が来ましたね。ほぼこの機会にしかnoteを書かない私ですが、今回は「冒険ってなんかエネルギッシュで強い意志を持って始めるものなイメージがあるけど、本当にそうか?」と考えてみたことを書きたいと思います。過去の私の記事を読んだことがある方は予想がつくかと思いますが、大体「中動態」「生成的」「自然的」「意味的」なものの見方をしている人間でして、今回もそんな冒険論です。
冒険(Quest)とは、問い(Question)だ
「冒険」という言葉を聞いて、いつも真っ先に私の脳裏に浮かぶのは、「問い」という言葉。ドラゴンクエストの「クエスト(Quest)」と、「問い(Question)」は、語源が一緒。「探し求める」といった意味の語源らしい。
個人的にも、「問う」行為は「思考の冒険に出る」行為だなと感じる。自分の中にまだないものを探し求めたり(ex.今日の晩ご飯は何にしよう)、既にあるのだが何故かわざわざ他の可能性を探してみたりする(ex.なんで信号って守らなきゃいけないんだろう)、そんなイメージ。
何も見つからない可能性もあるし、傷つく可能性も、戻って来れなくなる可能性(?)もあるが、試しに外に出てみるのだ。

そんな問い(思考の冒険)はどうやって生まれてくるか。
「よーし、”今日の晩ご飯は何にしよう?”って問うぞー!」って問うたことなど一度もない。気づいた時には既に問うてる。
クライアントにヒアリングする時も、ファシリテーターとして場に問いかける時も、子どもに保育園の様子を聞く時も、本を読みながら思考を巡らせる時も、問いは自然と沸き起こる。逆に、営業の場や就活の時などで「気の利いたことを聞かなきゃ…!」と意識的に問おうとしたところで、実際に気の利いた問いが出てきたことなど一度もない。
問いは不意に降りてくるものであり、冒険もまた不意に始めているものなのではないだろうか。
皆さんが、この一年でついつい問うていた(冒険していた)ことは何でしょう?
ちなみに私は、「なぜ人は、物事を二項対立で整理したくなるんだろう?」「無形資産が大事っていうけど、どう実践に埋め込めるだろう?」「もう少し自然豊かなところに住みたいな…どこに住もう…?」あたりかな。
冒険は、アイデンティティの探索だ
もう1つ、「冒険」と聞いて浮かぶのは、アイデンティティの探索。
私たちは皆、「自分はコンサルタントだ」「自分はファシリテーターだ」「自分は父親だ」「自分は日本人だ」などのアイデンティティを、多かれ少なかれ形成している。それらは度々”専門性”や”当事者性”のラベルで表現される。
つい先日のことだが、あるメンバーが「僕は”コンサルタント”の自己認識はあるけど、”ファシリテーター”っていう感覚はなくて・・・だけど最近、ファシリテーションについてちゃんと学んで、感覚を身につけたいなって思ってるんだよね。」と言っていた。
すごいなー、えらいなーと応援したい気持ちと共に、一抹の違和感もよぎった。彼は「これから」始めるようなニュアンスで言っていたが、私には「もうとっくに」始まっているようにしか見えなかった。
アイデンティティの表現として用いられがちな「専門性」とか「当事者性」は、往々にして”横並びの分類名”なイメージを持たれている気がするが、実際のところは”めちゃくちゃ重なりまくったベン図”状態だと、私は思っている。

しかし、言葉とは罪深いもので、「私は〇〇だ」という時、私たちは「重なり」以上に「輪郭」を意識してしまう。「私はコンサルタントだ」と表現した瞬間に、いくらファシリテーターと「クライアントに寄り添う」という要素が、エンジニアと「物事を逆算的に考える」という要素が、子どもと「あれこれ聞きまくる」という要素が重なっていようと、「私は(ファシリテーターやエンジニアや子どもではなく)コンサルタントだ」という違い(区別)を強調したものになる。言語とは基本的にそういう表現技法であり、アイデンティティ形成はそんな「言語」表現に大きく頼る側面がある。

もちろん、それ自体は悪いことではない。人間のごく基本的な発達プロセスであるし、あるいは実用的なコミュニケーションの一環としても必然である。
ただ、そこには「こだわりととらわれの紙一重感」が常に付きまとう。
ひとたび「これが自分たちのこだわりだ!」と思えるものが発掘できたとしても、油断してはいけません。「こだわり」の確信は、「とらわれ」の始まりだからです。
どんな流行語も数年後には必ず「死語」と呼ばれてしまうように、これまで大切だと信じて疑わなかった企業理念や成功法則が、知らずのうちに、新しい発想を阻害する「とらわれ」に変貌しているかもしれない。
ワークショップ型のチームにおいては、自分たちのものの見方は、捨ててもかまわない「とらわれ」なのか?あるいはこれからも守るべき「こだわり」なのか?ということを、絶えず自問自答していく必要があります。
私はコンサルタントだという”とらわれ”に陥らず、「私はコンサルタントだが、はたまた…?」と拡張や訂正の可能性に開かれている(拓いていく)状態の方が、冒険的なニュアンスがある。先ほどの「問い」の話とも繋げると、「自分は〇〇だ!」という思考のホームに留まるか、「自分は何者だ?(〇〇かも?)」と冒険に旅立つかのイメージだ。あるいは、”問い”の形でなくとも、アートに代表される「どっちともつかない(つかせない)表現」に落とし込むのも「冒険的」かもしれない。


話は少しズレるが、視点を「個人」から「チーム」にしても似たことが言える。
チームづくりにおいて「同じ志や目標を持ち、互いの違いを活かそう」的な標語はよく聞くが、個人的にそれは”正解の半分”な気がしてならない。チームがうまくいっている時、志や目標といった大きなもの以外にも、チーム内に同じもの、重なっているものがあるはずなのだ。
例えば漫画のワンピースで、ルフィとゾロとサンジで「めっちゃ強い」という要素が、サンジとウソップとナミで「常識的」という要素が、ウソップとナミとチョッパーで「ちょっと臆病」という要素が重なっているように、全員ではなくとも一部の間で、全部ではなくとも部分的に”同じ”が沢山あり、それが日常的な手触り感のある繋がりとして機能している側面を、見落としてはいけない。

(冒険的な)チームづくりにおいて、「共同性」がないまま「協働性」を生み出すことはできない。
少なくとも私は「この人と自分、全然違う!よし、一緒にやるぞ!」とはならず、「この人と自分、同じだけど違う!面白い!よし、一緒にやってみるか!」となる。
話を戻そう。
始めのメンバーの件に戻ると、彼の言う「自分はコンサルタントだが、これからファシリテーターにも…」は、文字通り受け取れば「ファシリテーターの道を今から歩んでみるぞ」なのだが、実際的には「ファシリテーターの道も既に歩んでいたこと(そしてまだ先が続いていること)に気づいたぞ」なのだと思う。「新たな道を見つけた」のではなく、「既に歩いている道の見方が変わった」である。
かく言う私も、接客業、教育業、コンサル業、ファシリテーター業などを点々としている中で、きっかけはいつも「あれ、似てない?」という気づきだった。意識的に挑戦(転職)する時には、もう既に三合目くらいまで登っている感覚。子育てにおいてもそうで、もちろん初めてのことだらけではあるのだが、とはいえ「あれ、〇〇と似てる?」と思うものは沢山あった。30歳で子育て山を1から登り始めたというより、30年で無自覚に登っていた子育て山のことに「気づく」の連続だった。
冒険は、思いがけず始まる。というか、始まっている。
私の冒険論は、かっこつけて言うなら「意味論的」で「認識論的」な冒険論。
私たちは、自分の認識(アイデンティティ)とは裏腹に、様々な意味が重なった道を歩んでいる。つまり、常に「思いがけず」大きな冒険をしている。
そんな道中で、私たちは不意に「問う」ということをしている。つまり、「思いがけず」小さな冒険をしている。
そして、小さな冒険を繰り返す中で、自分の歩む道に違う見方ができることに「気づく」時がある。「思いがけず」冒険していることに「思いがけず」気づく形だ。
もし私が、人に「冒険」を促す本を書くなら、それは『冒険のはじめ方』ではなく、『冒険の気づき方』というタイトルだと思う。
今年、自分が思いがけずしていた小さな冒険(問い)は何だろう?
今年、自分が思いがけず始めていたことに気づいた大きな冒険(アイデンティティの探索)は何だろう?
今、自分が思いがけず始めていて、まだ気づいていないだけの小さな/大きな冒険は何だろう?
皆さんはいかがですか?
最後に宣伝です!
冒頭でも紹介しましたが、MIMIGURI代表の安斎の新著『冒険する組織のつくりかた「軍事的世界観」を抜け出す5つの思考法』が予約開始されました!是非ポチってください!
あと、同じくMIMIGURIの小田が今年出版した書籍『アイデアが実り続ける「場」のデザイン 新規事業が生まれる組織をつくる6つのアプローチ』も是非!
こちらも、「新規事業開発」「事業の多角化」という冒険の書以外の何者でもない本なので!
アドベントカレンダーDay16は、ちょねだこと米田さん!
刺激的な記事を書いてくれるに違いない!
お楽しみに!