言語理解120の理解

昨年の11月に受けた、WAIS-Ⅲという心理検査。
そこで、私は言語理解120という得点を出した。
この検査は、同年代の平均を100とし、知的発達の水準を求めるものだ。
120という数字には、平均の上、と注釈が振られている。

たしかに私は、言語に対する強烈な執着を持っている。
そのことを客観的数値として示され、さらに、最近は「こういうのが読みたいけどない。ないなら書けばいいじゃない」精神で、いろいろ書いて、書いたからには外へ出して。
ここnoteだけでなく、たとえばTwitterとか、pixivとか。
そうするうちに、「ああ、マジで執着凄いな」と、実感している。

響きを揃えたり。音数を揃えたり。字面を揃えたり。字数を揃えたり。一度使った言葉を別の意味で使い、被せつつずらしたり。
そういうことを、やっている。やらないと、気が済まない。

言語理解は、事実や思考の、言語による理解と表現。
作動記憶は、聴覚情報の短期記憶と処理。
知覚統合は、視覚情報の把握、認識と構成。
処理速度は、視覚情報の早く正確な処理。

私は、このWAIS-Ⅲの4つの指標のうち、言語理解と、もうひとつ、知覚統合が高い。他2つは低い。
知覚統合の欄には、幾何学模様といった無意味な情報を理解する能力が高い、と書かれている。

私にとって、言語とは文字である。つまり聴覚情報ではなく、視覚情報。
何かを話すとき、一度脳裏で文章を書き、それを音読している。
何かを聞くとき、聞こえたそれを文字へと起こし、それを黙読している。
読み上げる自分の内声のみが、聴覚情報となる。
聞こえる他者の声は――あるいは自分の内声さえも――意味を持たない音の連なり、音楽のように聞こえている。
意味を持たないからこそ、聴覚情報ではあるものの、音としての言語を好む。
その音楽の心地を求め、言葉を調えている。

ということではないだろうか。
別に専門家ではない。故にこの理解が正しいのか、適切なのかは知らない。
ただ一個人の、主観的経験に基づく提唱だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?