藤本由紀夫とアンビエント・ミュージック  ジョン・ケージが少しだけ関係ある、アンビエント・ミュージック考

『intoxicate』Vol.70(2007年10月)

 仕事場では、午後一〇時になるといつも、ふと一瞬、静寂が訪れる。毎日定刻になると空調が自動的に止まるように設定されているのだ。その静寂は、空調が止まることによって訪れるわけだが、その直後には、それまでそこにあったにもかかわらず、意識されることのなかった話し声やキーボードを打つ音などの物音が突然前景化し、鮮明になって耳に飛び込んでくる。通奏低音のような一定のややくぐもった空調のノイズが、ヴェールのように耳を覆い隠し、そうした物音をフィルターしてしまうからだろう。このような現象は、音のマスキング効果として知られているが、音が止まることによって、逆に空調の存在が意識させられ、さらには時まで告げるというこの事務所のシステムは、サウンド・アートさながらではないか。同様に、仕事中には常時オンになっているコンピュータから、小さな音でずっと音楽を流しっぱなしにしている。もちろん、コンピュータのファンの音も同時に空調の音のように聴こえているわけだが、しかしそれは、音楽や音を「聴いている」というのではなく、むしろ、音の「在る」状態を作り出し、それを常態とした音環境を作り出している、といった方が正しいだろう。こうしておくと、隣席での電話の会話や、耳障りな小さな物音などがそれほど気にならなくなる。ただし、耳に入る音は、業務上支障のない程度にマスキングされなければならないので、ヴォリュームは空調の音より少し大きいレベルくらいにしておくのが良いようだ。

 これは、「聴いてもいいし、聴かなくてもいい」というような、消極的な聴取による音楽の使用法である。周囲の小さな物音が耳に知覚される閾値を下げるために耳を包み、時にはその音楽に耳を傾けてもよいような音楽の機能。それは、ブライアン・イーノが、自身が主宰するレーベル、オブスキュアより発表し、のちの「アンビエント」へとそのコンセプトを発展させる契機となった作品『ディスクリート・ミュージック』(一九七五)を制作したときに提示した、「聴くこともできるし、無視することもできる音楽」というコンセプトを思い出させる。あまりによく知られたエピソードだが、この作品が制作された背景となったのは、イーノが交通事故によって入院した際に経験し、そして発見したもうひとつの音楽の聴き方である。自身によるライナーノートに記されているように、それは、病室のベッドで身動きできずにいたイーノを見舞いにきたジュディ・ナイロンが、一八世紀のハープ音楽のレコードを持ってきたことに端を発する。イーノは、彼女が帰った後、レコードをプレイヤーにセットしたが、ベッドに戻ってからアンプの音量が小さい上に片方のスピーカーからは音が出ていないことに気づいた。しかし、直す元気もなかったので、そのままにしておいたという。そこから、光や雨音と同じように、音楽も環境の一部として聴くという考えを発想し、そして、環境に作用する音楽としての環境音楽のコンセプト、「アンビエント」を考案する。それは、たとえば、ミューザックが無味乾燥な音楽によって、ある空間を、ただ隙間を埋めるためにだけ垂れ流すのとは異なり、わたしたちを「包囲する」さまざまな環境を、音によって、その元の環境に即した形でマスキングするような音楽だといえるだろう。ゆえにそれは、空調の音のように意識されずに「在る」ように存在する音楽となる。以降イーノが追求していくのはアトモスフィアとしての音楽であり、音自体による空間を作るような、インスタレーションによる作品発表が主なものとなる。

 藤本由紀夫は、大阪芸術大学の音楽学科で電子音楽を学び、音楽を出自としながら、現在国内外で高い評価を得るサウンド・アーティストである。藤本は、イーノのようなノン・ミュージシャンではないが、その作品はいわゆる音楽家による営為から生み出されるものとはやや趣を異にするため、それが彼を音楽家という印象から隔てている。藤本の作品の特徴は、音を聴くことの驚きとその楽しみを観客に再発見させるということであり、そのために「聴く」という行為を、能動的な創造行為として機能させるものである。
 先頃、大阪の国立国際美術館で開催された藤本由紀夫の個展(藤本由紀夫展「+/-」二〇〇七年七月七日から九月一七日まで開催)において発表された作品《+/-》は、二百十三台のCDプレイヤーを内蔵したポータブル・スピーカー・システムを、美術館の展示室のひとつの壁面にしつらえた棚にグリッド状に整然と配置し、二百十三台がそれぞれ一曲ずつのCDをループ再生する、というものである。もちろん、二百十三曲というのは、ビートルズが現役活動中に録音、発表した楽曲の総数である。この展覧会のカタログに小論を寄稿したのだが、この作品は新作であるため、作品が完成したのは原稿執筆より以後のことになった。その小論の末尾に、ジョン・ケージとダニエル・シャルルとの対談『小鳥たちのために』から、コンセプチュアルな作品の難点について、「なにかが起きる以前にそれを知っていると思わせるところにある」ことであるという、ケージの発言を引用した。それは、作品について書かれたことは、あくまでも事前に知り得た作品についての情報を頼りにした予測でしかなく、ケージがさらに言うように「経験そのものは常に経験について考えられたこととは別のもの」であるということの、ちょっとした言い訳である。
 藤本には、香りを彫刻的に扱った作品がある。当初、この作品も音楽という素材を不定形な彫刻として展開したものであり、つまり、二百十三曲が重なり合って、ホワイト・ノイズ状の音の塊となって展示空間に現われ、それは、むしろ騒音に近いものであろうと予想していた。しかし、それは藤本本人も言うように、非常に「絵画的」といえるものであり、そこには、不快な雑音ではなく、空調の音のレベルに調整された「音の面」が出現していた。それは、ただ対面しているだけでは細部を聴き取ることはできず、まるで絵画のマチエールを凝視するように(その意味では触覚的でもあった)壁面に沿って音の肌理に聴き入ることで、ビートルズの曲という細部がわずかに聴き取れる。とはいえ、この中からビートルズのある一曲を聴き分けることは容易ではない。それは、二百十三曲のビートルズの曲を自分が知っているからこそ、ホワイト・ノイズの中から、それぞれある一曲を認識することができたのではないか、ということであり、もしビートルズの曲をまったく知らない人がこの作品を聴いたとしたら、そこから一曲を取り出すことは困難であろう(実際に、この中にはない曲を聴き取ってしまった人もいたようである)。
 美術館による展覧会の紹介文には「日常的な空間を劇場化してきたこれまでの藤本作品から離れ」「無機質な近代的展示空間に解き放つことによって、もう一つの藤本由紀夫の世界を繰り広げる試み」とある。「ホワイト・キューブ」とも言われる美術館の展示室は、白い壁に囲まれたニュートラルな空間である。しかし、その空間で生起する、つねに異なる音楽の組み合わせによるノイズの細部に耳を傾けるならば、この作品も他の藤本の作品と同様に、極めてシンプルに、わたしたちの耳の機能を働かせるための装置としてある。また、空間を、空調音のようなノイズのヴェールで覆ったこの作品は、藤本がビートルズの曲をアンビエント化したものともいえるかもしれない。

 先述したイーノの、消極的な聴取によって機能する音楽というコンセプトに対して、それを「受動的すぎる」とする見解(けして批判的なものではないだろう)を打ち出したのが、アンビエントの第二作『鏡面界』を共作したハロルド・バッドである。バッドによる音楽は、自身の言う「徹底した単純化(Radical Simplisity)」によって、即興的に演奏される中から、あるフレーズを発見しながら奏でられる断片的な音の連なりによって作られる。イーノとの共作では、イーノがエコー処理などによって作り出すアトモスフィアの中に、まるで波紋をおこして広がっていくかのようなサステインを伴ったピアノの音を点描的に配置される。その環境のために機能する音楽は、作品空間の中で、リスナーの能動的な聴取によって、そこに込められた音楽の美しさを発見させるだろう。イーノのアンビエント・シリーズは、第一作の『ミュージック・フォー・エアポート』のような、その徹底した機能主義から、情景的、映像的な作品、そして内面で体験する作品へと変移していくが、それは環境のように「在る」作品から、より「聴くこと」が創造的に音楽を発見、あるいは体験するような行為を伴う作品への移行と同調している。
 先頃、町田良夫のレーベル、アモルフォンより復刻された、バッドのプロデュースによるユージン・ボーウェン(現ジーン・ボーウェン)のアルバム『ブルジョア・マグネティック』は、もともと電子音楽を作曲していたが、フォーク・ミュージックやアート・ソングとしての形式で作品を作るようになったボーウェンと、バッドのシンプルな美しさを持つ音楽とのコラボレーションであり、それはアメリカ実験音楽の系譜に連なるものといえよう。環境と同化し、それを中和するようなアンビエントのコンセプトから、バッドは環境化された音楽の中に美しくも神秘的な響きを点在させることによって、その環境を覆う想像の風景を描き出し、もうひとつのアンビエント・ミュージックを作り出したのだ。

*このアルバムは、バッドとボーウェンの自主レーベル、Cantilより八一年に発表されたものである。三枚しかリリースのない短命なレーベルであったが、他の二枚のバッド作品はすでにCD化されており、この作品はいわば伝説の作品となっていたものだ。また、この時期のイーノ周辺の実験音楽、即興音楽レーベル、先述した、イーノのオブスキュア、デイヴィッド・トゥープのQuartz、デイヴィッド・カニングハムのPiano、即興音楽のBeadなどから発表された諸作品は、いまこそ再発されるべき重要なドキュメントである。その意味でこの復刻は非常に意義深い。


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