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Intrinsic Rewards in School Crime: Csikszentmihalyi & Larson(1978)

チクセントミハイの「楽しさへの反省」の中で,非行少年の研究として引用されていたものである。「学校犯罪における内発的報酬」とでも訳せばよいだろうか。刺激的なタイトルである。

システム制約を受け入れる理由

チクセントミハイはまず,人がシステムに参加するとき,そのシステムに固有の制約を受け入れているという。ルール,といったほうが分かりやすいだろうか。ゲームに参加するにはゲームのルールを守らなければならない。その上で,なぜ子どもたちは学校のルールを守っているのだろう,つまり,学校の制約を受け入れる動機が子どもたちにはないのに,なぜ彼らは制約を受け入れるのかを問題にしている。

チクセントミハイによれば,人がシステムの制約を受け入れるのは次の3つの場合があるという。
1:制約を守れば快適さが,守らなければ罰が与えられるから。これは「飴と鞭」の発想である。原文では「stick-and-carrot」(人参と鞭)になっている。馬か? まあ,わかりやすい。
2:制約を守ることで将来の目標達成に有利になるから。これは「手段―目的関係」(means-end relationship)であると説明されている。
3:制約を守ることで楽しく活動できるから。これはいわゆる「内発的動機づけ」(intrinsic motivation)である。なお,intrinsicは本質的という訳語のほうが一般的で,電子辞書もDeepLもこの語を出す。しかし心理学では内発的という語が一般的に使用されるので,それにならっておく。

ごく初期の学校システムでは,1が多く見られたと想像する。この方法ではすぐにうまくいかなくなることは,誰でもわかる。今では使われていない,と言いたいが,そんなことはない。これを強化することは,すなわち外発的動機づけを学校システムの中心に置くということであり,とうてい受け入れられるものではない。
2は現在での学校教育のシステムの主流であろう。内申書とか入試とか,このルールに関するものは多い。これも外部の条件を動機づけに用いる点では1と同様であり,限界がある。
ということで,チクセントミハイが焦点をあてているのは第三の点である。

つまり,学校が楽しくなくなっており,教育を受けることへの内発的な動機付けが減少しており,学校が提供すべき楽しさと比べたら,「犯罪的な」活動のほうがより楽しくなっているのである。

というのが彼の主張である。だから学校犯罪が増えるのだという。

非行は楽しい

非行が,少なくともその初期段階では楽しい活動であるという事実は,多くの観察者によって指摘されてきた」とチクセントミハイはいう。先行研究では,物質的欲求よりもむしろスポーツ的な動機で非行が行われていること,利益のためではなく遊びであること,面白半分の行動であり,利益とは別に栄光や武勇といった満足感を伴う,のだそうだ。

非行は楽しい,と文字にして書いてしまうとかなり抵抗はあるのだが,たしかに,小さい頃の「悪さ」には,スリルや楽しさや,うまくいったときの満足感があった。同時に,罰の悪さや罪悪感も感じたかもしれないが,それはある種の「楽しさ」とは別に感じたものだったと思う。

上にあげたもののうち,「スポーツ的な感覚」が,フローとの関係をもっとも考えやすいだろう。チクセントミハイが,フロー体験のインタビュー行った相手には,ロッククライマーやテニス選手など,スポーツ選手が何人も含まれている。こうした活動では,フローの先行要因である「技術とスキルの一致」,「明確な目標」,「即時のフィードバック」が得られやすい。そして,暴力が必要な設定では高度な技術は要求されない。だから,幼児のフロー体験は暴力的,あるいは破壊的な行為をともなうのだと,チクセントミハイはいう。

仲間と(または親と)戦うことは,子どもたちにも可能なフロー活動の一つである。課題も技術も手元にあり,目標もフィードバックも明確である。他の技術を学んでおらず,他に行動の機会のない子どもたちは,暴力と破壊の中に楽しみの源を見出すのである。

つまり,このような活動の延長上に,子どもたちの非行や学校犯罪がある,と彼はいうのである。そして,「自己や他者に危害を及ぼさない設定の中で,フローを体験することを,子どもたちに教えること」こそが,教育の目標であると主張する。傾聴に値する意見であろう。

システムの変革

すでに書いてしまったが,1や2の考えに従って学校犯罪を減らそうとすれば,犯罪は減るかもしれないが,学校教育に深刻な影響もある。したがって,内発的動機づけによるシステムへの自発的関与を高めるように,変革を進めるべきだというのが,論文後半の彼の主張である。

ただし,容易に想像できるように,この変革はたいへん困難である。それでもこれを推奨する理由の一つは,「副作用がないこと」だという。学校に楽しみを見出して成長した人は,自分の仕事にも楽しみを見出すだろうというのである。その通りかもしれないが,きわめて楽観的な見方である。そして,自分の人生にも楽しみを見出すことを教えることができれば,「人々を外的な報酬への依存から解放するという究極の課題を達成するのに役立つ」というのである。繰り返すが,きわめて楽観的な話である。しかし,同時にきわめて重要な問題である。

チクセントミハイが考えているのは,学校システムの変革にとどまらない。論文では学校犯罪について語っていて,学校システムを変革したいという話をしているのだが,彼の考えは社会全体の変革に向かっていることが,上記の引用からわかる。
外的な報酬への依存から解放された人生。仕事を楽しみ,人生を楽しむ生き方。何か思い出さないか?
そう,ウィリアム・モリスだ。ジョン・ラスキンだ。つながった。

フローは学校を変えるのか

チクセントミハイが,子どもたちにフロー体験をさせることで,学ぶことの楽しさを覚え,それが仕事をすることの,生きることの楽しさへとつながっていくと考えていたことは想像に難くない。

原則として,どのような活動もフロー経験を生み出すことはできる。現在の学校のカリキュラムに,それを阻害するようなものはない。ラテン語や三角法を学ぶことは楽しいことだ。しかし決定的なのは,教科の習得ではなく,習得の過程そのものに重点が置かれるべきだということである。重要なのは,生徒が三角法を学ぶことではなく,学ぶという行為を楽しむことを学ぶことである。

重要なのはカリキュラムを変更することではなく,指導の目標を変えることだというのである。きわめてユートピア的な発想である。なぜなら,このような提案では,「成績はどうする」「入試制度はどうする」という質問に答えられないからである。もし,仮に,学ぶという行為を楽しむ,という目標のもとに学校システムを全面的に動かしたなら,成績をつけることは不可能だろう。つまり入試制度とは折り合わない。
現在においても可能になるとしたら,それは,学習による単位取得や資格取得が,具体的な「報酬」(昇進とか,新しい仕事とか,…)に結びついてほしいという欲求から離れた位置にある学習,つまり生涯学習の一部の形態においてだろう。

だから,チクセントミハイの論文もやや悲観的な調子で終わっている。

厳格なスケジュール,曲げられないルール,非人間的な教育状況が優勢であり続けるならば,学校は生き残るために外的偶発性にさらに重く依存しなければならないだろうし,その過程で,暴力こそ自らの存在を主張する論理的方法であると考えるような,退屈し疎外された,新しい大人世代を繁殖させることになるだろう。

チクセントミハイのこの指摘が,いまの日本の学校教育の現状を,かなり見事に言い当てているように思えるのだが,どうだろう。

まとめ

自己や他者に危害を及ぼさない設定の中で,フローを体験することを,子どもたちに教えること」こそが,教育の目標であると,チクセントミハイは主張していた。つまり学ぶことや,仕事をすることを楽しむ,そうした体験を教えることで,自らの仕事や人生を楽しむようにすること。そのことが,「人々を外的な報酬への依存から解放するという究極の課題を達成するのに役立つ」というのが,チクセントミハイの思想であった。これが,ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンの思想と重なっていることはすでに書いた。いや,面白くなってきたではないか。