組み立て体操のこと

『僕らの社会主義』という本をまた読み返しているのだが,33ページあたりの記述に関連して,組み立て体操のことについて,忘れないうちに記しておきたい。

内部から状況を変えるきっかけがあるとすれば,それは重大な事件や事故が起きたとき。これも外部からの刺激なのですが,そういときはさすがに内部でも「これまでのやり方を改めたほうがいいのではないか」という議論が生じます。 p.33

組み立て体操,つまり,学校の運動会の種目のひとつとしての「組み立て体操」の是非についてさかんに議論されたのは,数年前のこと。Twitter上でも,さかんに意見が飛び交った。どのような意見があったかは記録していないしはっきり覚えてもいないのだが,こんなに大きな事故がいくつも起きているのに,どうして学校はかわらないのか,という方向性だけは確かにあったような気がする。組み立て体操にともなう事故は,それ自体が「やり方をあらためたほうがいいのではないか」という議論が生じる「重大な」事故であるといってよい。このような「外部からの刺激」を,なぜ学校は(外側からみているとまるで)無視(しているように行動する)ことができるのだろうか。

これについて,私には何とも言えない記憶がある。
私は長いこと小学校の教員をしていたのだが,小学校の教員は一定の年数でもって別の学校に転任することになっている。私がある学校に転任して,最初の(あるいは2回目の?)職員会でのことである。1回目か2回目かはよく覚えていないのだが,とにかく年度初めと言うのは,次から次に会議が開かれるのが通例であったので,要するに4月1日に新しい学校に赴任して,いったいこの学校のローカルルールはどのようになっているのだろうということさえ,まだよくわからない段階でのことだったことは確かである。
会議の冒頭で校長が次のような趣旨を発言したのである。
「年度末の議会で,組み立て体操をとりやめることに決まったが,私の一存で,やはり組み立て体操を実施したい。」

職員会は冒頭から何とも言えない雰囲気になった。
いまさら校長の意向で年度末の決定を覆すのであれば,我々は何のために年度末に会議を重ねたのか。
もちろん,赴任したばかりの私はその会議の内容を一切知らない。その後も聞く気になれなかったので,結局聞かずじまいだったと思う。しかし,そのときの他の先生方の考え方を知るにつれて,だんだんわかってきたのは,要するに組み立て体操というのは,学習指導要領が求めているものではない。それよりもはるかに高度な「わざ」を,短期間に子どもたちに指導し,発表させることになる。それは,子どもの学習の「発表」の場である運動会にふさわしいのか,という問題意識であったように思う。事実,運動会の定番種目である「徒競走」の距離についても,何mがよいのかについて,カリキュラムをもとに話し合いをした記憶がある。

話をもどそう。

そのときの校長が,何を理由に,ちゃぶ台返しを演じたのか,会議での発言を今となってはほとんど覚えていない。しかし,私の勤務経験と,つたない指導経験から考えれば,すくなくとも次のような場面が頭をよぎったのではないかと,勝手に想像する。(あくまでも妄想である)

子どもたちは,突然に組み立て体操を知るのではない。子どもたちが,6年生になったら運動会で組み立て体操をするということを知るのは,少なくともその5年程前である。どういう意味か? つまり,1年生の運動会で,6年生の「お兄さん,お姉さん」が,組み立て体操をしているのを見るのである。1年生にとって,5歳年上の「お兄さん,お姉さん」は,教師あるいは親につぐ「おとな」的存在として認識されている部分がある。1年生の児童に学校になれさせるために,6年生と1年生は「ペア」を組んでいた。私の知る限り,このようなペア活動は一般的なものであった。ほかにも,2年生と5年生,3年生と4年生のようにペアを組むのだが,何と言っても,1年生と6年生のペアは指導のし甲斐がある。見ていて楽しいのである。授業中はさっぱり活躍できない勉強嫌いの子どもたちも,いざ1年生に何かを教える番になるとはつらつとすることがあるのだ。そういう意味では,このペア活動というのは6年生のためにある。もちろん,指導のしかたよっては勘弁してほしいこともあるのだが。
そう,1年生は最初の運動会で,6年生の「お兄さん,お姉さん」が組み立て体操をしているのを見るのである。そして,「みんなも6年生になったらがんばろうね」などという担任の声掛けに,無邪気に答えようとするのである。

運動会は当然,親も見ている。参観マナーについての意見はおいておくにしても,我が家の子も,6年生になったら「あれ」をやるのだということは,このときに知るのである。そして,きょうだいがいたらどうであろう。幼稚園,保育園のうちから,6年生になったら「あれ」をやるのだな,ということを,子どもも,親も知っている。
だからといって,次の年も,同じ種目をやるとは限らないだろう,というのは,その通りかもしれないが,だからといって,「来年は徒競走をやらないかもしれない」などとは,普通考えない。「来年のダンスはなんだろうね」と,今年とはちがう曲目を考えるのはありうるが,「来年は組み立て体操ではなくて何をするのだろうね」とは考えない。「来年は綱引きのかわりに何をするのだろうね」と考えないのと同じくらいに,考えない。運動会というのは,そのような「定型的な行事」として存続してきたのである。小学校の体育器具庫には,紅白の(学校によっては4色の)大玉があり,玉入れのかごがあり,綱引き用の綱があるのである。1年に1回の出番を待つために,そこにあるのである。少なくとも,私の経験の中では,どの学校もそうだった。例外はなかった。

さて,そのような状況の中で,「今年から組み立て体操はしません」と宣言された6年生はどのような反応を示すだろうか。
当然,理由を聞くだろう。なぜですか。ずっと楽しみにしてきたのに。
中には,(私のように体育が嫌いな子どもは)よかった,逆立ちなんかできるわけないし。よかった,よかった,と考える子もいる。
とはいえ,小学校では,「体育の得意な子」はエースである。たいてい,人気があるのである。ドッジボールが強くて,足が速くて,水泳の上手な子はクラスの人気者なのである。(もちろん例外はある)
不平不満が,「ずっと楽しみにしてきたのに」で終われば問題はない。組み立て体操にかかわるリスクを説明し,新しい種目の楽しさをアピールし,子どもが納得すればよいのだ。問題は,そうはならない場合である。

ずっと楽しみにしてきたのに,どうして僕たちにはさせてもらえないんですか。みんなでがんばれば,けがをしないように気を付ければ大丈夫です。やらせてください。僕たちのことを信用してください
ずっと楽しみにしてきたのに,どうしてうちの子たちにはやらせてもらえないんですか。けがをしないように,私たちも練習をサポートしますよ。やらせてください。子どもたちの夢をつぶさないでください

断っておくが,これは妄想である。本当にこういうことを言い出す子どもがいるかどうか。こういうことを言い出す親がいるかどうか。私は知らない。それでも書いてしまったのは,いかにもこういうことを言いだしそうな雰囲気を感じる瞬間というものを,いくどか体験してきたからである。そして,もしも,ほんとうに,上記のようなやりとりが現出したならば,それは学校の危機である。そこでは,教師と子どもと保護者の間にあった信頼関係が崩れ去っている可能性が高いからである。

子どもたちは,とくに現代の子どもたちは,自分たちで計画して,とか,自分たちの意見を取り入れて,という言葉が好きである。いや,好きなのではない。そういう言葉によって,子どもたちに,授業に「前向きに」参加させようとしているのである。教師が。
だから,「組み立て体操」にかわる新しい楽しい競技を,自分たちで考えよう,という方向で活動してくれれば,それは成功である。組み立て体操の成功のために自分たちで協力して取り組もうと思っていたのに,やらせてもらない,となったら,それは失敗である。ネガティブ思考の私は失敗方向のイメージを膨らませるのが得意である。かの校長も,そうだったのではないかと,「妄想」するのである。

私が最後に勤務した学校では,数年前の世論の盛り上がりを機に,組み立て体操を中止した。代わりに演じられたのは,縄跳びを用いたリズム運動であった。若い教師がそれを指導していたが,ひとつの新しい方向性として,価値あるものであったと思った。
ただし残念なことに,学校現場では,なお組み立て体操は行われていると聞く。さらに危険度の高い「わざ」が披露されている学校もあるようだ。大事故がおきないように,と祈るばかりである。そして,そうなる前に,「やり方をあらためて」いただきたいものである。