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【前編】地域の課題を「まるっと解決」したい。アートディレクター西山里佳さんの挑戦

南相馬市が発行しているサポーター会報誌「ミナミソウマガジン」をご存知ですか?

サポーター登録をすると送られてくるのですが、この高いクオリティのものを無料(会員登録も無料)で配布するなんて! と初めて手にしたときは驚きました。

いつかこのZINEを作っている方にお会いしてみたいと思っていたところ、同級生から「中学の後輩がこういうことしてるんだけど」と連絡が。それがまさかの「ミナミソウマガジン」を作ってる方だったのです。

同級生の後輩ということは私の後輩でもあり、すなわち富岡町出身! 早速アポを取り、南相馬市の地域おこし協力隊として活動しながら起業した、西山里佳さん(アートディレクター)を取材してきました。

CDジャケットのかっこよさに憧れてデザイナーを目指す

—りかさんがデザインに興味を持ったきっかけからおうかがいしたいのですが。

西山さん(以下敬称略):高校生の時にはすでにデザイナーになりたいと思っていました。音楽、特にパンクロックがすごく好きで。

—例えば誰が好きだったんですか?

西山:パティ・スミスとか好きでしたね。

—洋楽が好きだったんですね。

西山:もちろん日本の音楽も大好きでした。中学の頃にメロコアブームがきて。Hi-STANDARDとか。色々なバンドの曲を聞きあさってましたね。

—でも音楽ではなくデザインの方に進んだんですね。

西山:そうですね。「BLANKEY JET CITY」という日本のバンドがすごく好きで。BLANKEYのジャケットがめちゃくちゃかっこいいんですよ! それこそ洋楽のジャケットみたいなデザインで、「誰がデザインしてるんだろう?」と思ってクレジットをみてみたら、『コンテムポラリー・プロダクション』(C.T.P.P)というデザイン会社がやっていることがわかったんです。BLANKEY以外でもかっこいいと思うCDジャケットはその会社が手がけたデザインで、そこから私も「デザイン」をやってみたいなと思うようになりました。特に音楽を表現し引き立てる、CDジャケットのデザインをやりたいなって。

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—たしか、りかさんの師匠はCDジャケットのデザインをやってらっしゃる方でしたよね?

西山:そうです。その師匠がもともと『コンテムポラリー・プロダクション』に所属していた人で。

—どうやって繋がったんですか? 探し出した?

西山:このCDジャケットかっこいいなと思ってデザイナーのクレジット見たら師匠の名前が書いてあって、その名前を手がかりに調べました。就活のときに、会えるチャンスだ! と思ってアポをとって会いに行ったんです。一人で活動している方なので、社員募集はしていなかったんですけど。「作品を見るだけならいいよ」って言っていただいて、見ていただきました。

—就活はそこ1本のみに絞っていたんですか?

西山:いや、そんなことないです。結局就職したのは、百貨店の広告制作をしている会社でした。でもそこは研修期間の3ヶ月でやめちゃいました(笑)。

チャンスを逃したくない! 

—その師匠は新しい人を採用するつもりはなかったんですよね?

西山:そのタイミングでは採用する予定は全然なくて。けど、私が就職して2ヶ月くらい経ったときに、「今なにしてんの?」って電話がかかってきたんです。「ちょっと忙しくなったから手伝って欲しい」と言われて。でもすでに就職してたので、会社が終わってから師匠のところに手伝いに行っていました。夜の7〜8時頃まで会社で働いて、そこから師匠のところで夜中の2〜3時までやって、また朝会社に出社するみたいな。

—かなり大変じゃないですか!

西山:そういうことを1ヶ月くらいやったら、案の定、体を壊しました(笑)。このままじゃダメだなと思って、ちょうど会社の研修期間も終わるタイミングだったので、そちらを辞めることに。新入社員教育もきっちりしてもらえて、いい会社だったんですけどね。でもここで会社に残るとチャンスを逃しちゃうなと思って。バイトしながらでも師匠のところで働こうと思いました。

憧れの音楽業界で仕事ができた「人生のご褒美」

—師匠のところに移って、りかさんが携わった仕事はどんなものだったんですか?

西山:師匠が手がけるCDジャケットデザインの、歌詞ブックレット制作のお手伝いなどしていました。師匠から紹介してもらって、私が敬愛するアーティストの音楽レーベルで物販などのバイトをしながら働いていたんですけど、そこに所属するアーティストのファンクラブの会報誌のお仕事をもらえるようになって。それが自分がある程度デザインを任せてもらえるようになった最初の仕事だと記憶しています。

—憧れのアーティストのお仕事!

西山:そうなんです! その時代を、私の中では「人生のご褒美」って呼んでます(笑)。辛いこともありましたが、今振り返ると本当に最高の経験でした!

師匠をはじめ、業界の方々にご飯にも連れていってもらったりとか。最初はめちゃめちゃ緊張しましたけど。少しでも何か吸収しようと思って、クリエイターが集まる打ち上げに同席させてももらったときはノートを持っていって、好きな映画とか音楽とか質問してメモしてました。

—それを自分でも観たり聴いたりして。

西山:はい。そのときの経験が、今の自分の糧にもなっているなと思います。

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—学生の頃から憧れていた業界で仕事できるなんて、すごい経験!

西山:でも失敗することも多々ありました。皆さん気さくに接してくださって、仕事相手としての距離感を図りかかねて、師匠からお叱りをうけることも。まだ実力もないのに環境に恵まれていたので、自分の力だって勘違いしてしまうところでした。“師匠がいる上での私”、“師匠が仕事をしやすいように”、と自分の立場をわきまえるようになりましたね。

ゼロからものづくりをしてみたい

—東京では何年くらい働いていたんですか?

西山:20〜33歳くらいまでですね。

—じゃあ、福島に戻って来て3、4年くらい経つんですね。東京で働き続けるんじゃなくて、こっちに戻ろうと思った理由は?

西山:やっぱり震災が大きかったと思います。震災がなければ東京でずっと働いていたと思います。あとは、音楽業界が変わってきていたというのもありますね。そんな中で自分はどんなデザイナーになりたいのかって考え直しました。

デザイナーとして働きはじめた時からフリーランスになって自分一人でやってみたいという思いはありましたし、何をメインにデザインの仕事を開拓していくかを考えると、音楽関係のデザイナーは正直厳しいなと。データ配信になってCD自体が少なくなってきてますから。

そんなときに震災があって、地域のデザインというものに目を向けるようになりました。地方在住のデザイナーさんが活躍されているのを見る機会が増えて、それもありなのかな、むしろゼロから作れる環境って面白そうだなって思って。

—私の勝手なイメージですけど、出版社もどうしても東京に集中してて。デザイナーさんもそうなのかなって思ってました。でも確かに最近地方が面白いと私も感じていて。そういう地方の面白さが目につくようになったのって、自分の意識がちょっと変わってきたからなのかな、とも思ったり。

西山:そうですね、それはあると思います。実は、震災の直後に地元に帰ろうと思ったわけではないんです。地方に興味がわいていたので、“東京じゃないどこか”に行きたいなとは思っていました。結果、福島は自分が生まれ育った場所でもあるし、私にとっては一番条件がよかったのでUターンすることにしました。


後編では、福島にUターンしてから南相馬市の地域おこし協力隊になった経緯、「ミナミソウマガジン」や西山さんの仕事についてお話をうかがいます。

撮影:白圡亮次
撮影場所協力
小高パイオニアビレッジ
〒979-2124
福島県南相馬市小高区本町1-87
TEL:0244-26-4665
URL:https://village.pionism.or.jp/

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