2‐1.十歳までは普通の家庭だった

 わが家は両親と私、一つ下の弟、の四人家族だ。

 父と母の出会いは大学時代だった。
 卒業後に社会人を数年経験してから結婚し、アパート暮らしの時期もあったようだ。私が物心ついた頃には一軒家に住んでいた。広い庭付きで、近所で一番立派な白い家だった。
 父は広告代理店勤務で、忙しかったけれど稼ぎのいい人だった。母は保険会社勤務だったが、出産後に専業主婦となっていた。
 母はマメな性格です。家事も子育ても完ぺきだった。妻としても、父の奴隷なのかと思うくらい完璧にお世話をしていた。
 例えば、父の出社の準備は全て母がしていた。父は朝起きたら洗顔を済ませ、パジャマのまま食事をする。食後に母が用意した下着、洗濯後にビシッとアイロンをかけたYシャツ、靴下を身に着け、ネクタイだけは自分で選んでいたように思う。
 出社時に持っていくものは全て机の上に、母が丁寧に並べていた。
アイロンのかかったハンカチに、腕時計、財布と名刺入れ、たばこやミント味のタブレットを、父が自分で鞄に入れる。
 最初から母が鞄に入れると、忘れ物がないかどうかお互いに信用できないので、母が並べたものを父が入れる、という工程を踏んでいたらしい。
 そして、食事中に母が磨いていた靴を履いて出ていくのだ。もちろん食器は食卓に置きっぱなし、パジャマも脱ぎっ放しだ。
 私はそういう家庭で育ったので、父親というのはそういうものだと思っていた。同じように母親も、そういう存在だと思っていたのだ。
 母は私達にも同じように接した。私も弟も、朝は服が用意されていたし、子どものうちは食器なども下げなくてよかった。何もかも母がやってくれたので、幼少期はとにかく全ての時間を遊びに費やした。
 父は冗談が好きで、子どもが好きな人だった。広告代理店は土日にイベントがあるので、休みの日に遊んでくれる親ではなかった。それでも、出張にいけば豪華にお土産を買ってきてくれたし、イベントで子ども向けの景品がある時はもらってきてくれたし、休みの日に一緒にお風呂に入るなど、子煩悩だったと思う。
 当時大流行のたまごっちも、父が仕事先でもらって来てくれたので、非売品の限定モデルを誰よりも早く持っていた。
 記憶にはないけれど、赤ちゃんの頃に、旅行に行った写真もいっぱい残っていて、とても愛されていたのだと思う。
 家も家具も車も立派だった。おもちゃも沢山あって、経済的に恵まれていたのだ。
 当時は姉弟も仲がよく、年子だったので友達のように一緒にバカなことをして遊んだ。
 夏は、庭にブランコやビニールプールを出して遊び、アイスを食べた。
 冬は自分の背丈よりも積もっている雪の壁に穴を掘るだけでかまくらができた。その中におもちゃや食べ物を持ち込んで秘密基地として楽しんだ。
 こうして思い出して見ると私の人生のピークは幼稚園から小学校低学年までだったように思う。自由で、何も怖いことを知らなくて、毎日楽しいことができて、よく眠れて、家族で笑いあって、本当に幸せだった。

 物心ついた時から虐待を受け、こういう時期を経験していない人もいることだろう。きっとそっちの方がつらいのだと思うが、私は「こういう幸せな時期を知っているからこそ」ここからの日々がつらかった。
 もう戻れない、楽しかったあの日に帰りたいと、そればかり考えて過ごす虐待の日々を生きることになった。


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