3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話-vol.21 自分らしくいられたわけ
自分らしさとは何か。自分の存在意義、存在価値とは何か。
そんな見える気配のない答えを探し求めながらも、周りの目を気にしすぎて、本当の自分を出せないわけではなかった。比較的、ありのままの自分でいられているような気がする。
どう思われていようが、私は私と思うことができている。
何故、そう思うことができ、自分を堂々と見せることができているのか。
要因は複数あるだろうが、その一つには、やはり、三つ子が関わっているような気がする。
どんなに否定する人間がいても、べそをかいて家に帰っても、「そのままでいい」「気にする必要はない」と包み込んでくれる者が2人いた。
それが、至極心強くて、本当の自分を隠さずにいることができた。
高校一年生の頃、学年朝礼で生徒代表のスピーチを頼まれたことがあった。私は、300人以上いる人間の前で話すにもかかわらず、「夢について」の持論を語った。
小説家、自分の頭の中の世界を書き綴り、それを世に出すこと。それが私の夢であると。しかし、周りは一握りだと言うのだと。それは、諦める理由にはならないのだと。全てのことは同じく一握りであることに変わりはないと。諦めるにはまだ早すぎるのだと。
夢見る夢子と笑う者もいるだろう。しかし、それを承知の上で、震える足に力を入れて語った。
朝礼後、少し問題が起こったらしい。次女が何やらある男子生徒を怒鳴っただとか。あとで聞いてみると、その男子がスピーチをした私のことを馬鹿にしているのを聞いたためであると知った。
よかったのに、と思う反面、ありがたいと思った。理解してくれる人がこんなに近くで支えてくれていて、恵まれていると思った。
肯定でも否定でもない。どちらであるとジャッジするわけでもなく、ただただ自分を受け入れてくれる。
その環境が、どんなにありがたいことなのか、今、2人とバラバラになってしまった今だからこそ強く感じる。
三女は服が好きであった。服飾美術の大学に進学してから、よりファッションを楽しんでいたように思う。私も次女も三女の個性的で素敵な三女らしいコーディネートが大好きであった。
しかし、ある時、母が言った。
「恥ずかしい格好はやめて」
TPOをわきまえていないわけでもない。ただ、その個性が母には異常に見えたのだろう。その異常を、母自身の見てきた狭い世界とのギャップを耐えられず、三女に発した言葉だ。
身内だから、受け入れてくれるといつから安心しきっていたのか。身内だからではない、偶々、三人が、この三つ子が、互いに受け入れられる仲であったに過ぎないのだと、このとき、強く感じた。
自分を強く持って。
貴女はとっても素敵な人なのだから。
その素敵な考えをたった一人の否定で捨てたら駄目よ。
ほら、大丈夫。
そんな貴女が大好きで、誇りなの。
自分を脱ぎ捨てそうになった時、互いにそんな言葉がほろりと口から溢れ出して、互いに抱き、悲しみを包む。
綺麗事でも、慰めるために言うでもなく、心の底から思うその言葉一つ一つを丁寧に連ねる。
きっと、これからも、脱ぎ捨てそうなことはあるだろう。過度な強制的な協調性を求められては、脱ぎ捨てざるを得ないこともあるだろう。
しかし、そんな時に、惜しんで脱ぎ捨てたものを、代わりに持っていてあげよう。貴女がまた着ることができるように。
自分らしくいられる。
当たり前のようで当たり前でない。
そんな素敵な環境は、これからも崩れることはないだろう。
私たちなら。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 自分の記録やこんなことがあったかもしれない物語をこれからもどんどん紡いでいきます。 サポートも嬉しいですが、アナタの「スキ」が励みになります。 ……いや、サポートとってもうれしいです!!!!