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なぜ新宿に紀伊國屋書店があるのか 門井慶喜「この東京のかたち」#13

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※本連載は第13回です。最初から読む方はこちら。

 新宿というのは、本来もちろん地名ではない。

「新しい宿場町」というほどの意味の普通名詞である。いったいに普通名詞というのは、何度も人の口に出されると、わりあい地名になりやすく、だから新宿という地名はじつは全国のあちこちに存在する。そのうち半分くらいは、たぶん「シンシュク」と清音で読むのだろう。

 こうした地名にはほかにも新(しん)田(でん)、新地、新町(まち)、新橋などがあるけれども、茨城県結城市には新(しん)宿(じゆく)新田という二階建てみたいな地名もある由。東京の新宿の場合、はじめて世にあらわれたのは江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の時代だった。場所は、甲州街道ぞいである。

 甲州街道は、江戸から甲斐、信濃方面へと向かう幕府直轄の幹線道路である。いわゆる五街道のひとつであり、起点はむろん日本橋。最初の宿場はもともと下高井戸にあった。

江戸全図(合体版)_page-0001

「江戸全図」(『江戸の不動産』安藤優一郎、文春新書より)

 利用者には、さんざんな不評だった。この「宿間距離」は約四里もあったからである。日本橋を出たらいきなり延々16キロも歩かなければ最初の宿場へ着かないのでは、人も疲れるし、荷物をはこぶ、

 ――馬も、疲れる。

 それが大きな理由だった。

 宿場というのは、馬の乗り継ぎ所でもあるのだ。この乗り継ぎ所を「駅」という。駅は訓読みで「うまや」である。

 そんなわけで下高井戸の前に、

 ――もうひとつ、宿場町がほしい。

 できればちょうど中間のところ。その「中間」の地域にはたまたま信州高遠藩主・内藤家の下屋敷があったのだが、幕府はそれを上(あげ)地(ち)までして――一種の接収である――宿場町をつくらせたあたり、大衆に押し切られた感がある。「おかみ」は意外と弱かったのだ。

 内藤家こそ、いい面の皮だったろう。そこで設けられたのが内藤新宿、こんにちの新宿というわけだ。こんにちはその内藤の名も落ちてしまったが、つくってみると、宿駅以外の機能も持つようになった。

 いろいろ問屋があつまったのだ。米問屋、青物問屋、木材問屋……江戸という100万人の住み暮らす大消費地がすぐ東側にひかえているのだから当然といえば当然だが、他の宿とくらべて特に多いのが薪(しん)炭(たん)問屋であることはおもしろい。薪炭とは訓読みで「たきぎ」「すみ」であり、要するに燃料問屋である。それらは江戸の街の人々にとって、灯火用の蝋燭をのぞけば、ほとんど唯一のエネルギー資源にほかならなかった。

 どうして薪炭問屋があつまったのか。もちろん地理的な要因が大きいだろう。何しろ甲州街道の沿線には、こんにちの県名でいうなら山梨、長野、山国がそろっている。群馬もまあ沿道に近いだろう。

 山には林があり、森がある。つまり薪炭の生産地である。それが江戸の街めがけて奔流のように東へ東へと流れこむ、その筒先のような位置に新宿はあるのだ。

 もっとも、これは表の理由で、実際にはもうひとつ裏の理由がある。そんな気がする。私の邪推にすぎないのだが、問屋の側でも肩よせあって、数の力で、

 ――既得権を、まもろう。

 そんな思惑があったのではないか。

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 徳川時代には、生産者は無知蒙昧ではなかった。あちこちの木こりや炭焼きたちは、こんにちと同様、問屋にいわゆる中間マージンを取られることが気に入らなかったのだ。

 もしも江戸へ直接のりこむことができたら。もしも日本橋あたりへ店をひろげて「たきぎ」や「すみ」をじかに消費者へ販売することができたら。こちらも利ざやが大きいし、買い手のほうも安くつくから笑顔になれる。まさしく一挙両得ではないか。

 問屋の側からすれば、当然、

 ――冗談じゃない。

 ということになる。そんなことをされたらおまんまの食いあげ。大欲非道の生産者どもの江戸進軍をどうにか阻止しようとすれば、こっちも最終ラインで、スクラムを組んで、数の力でまもりきるべし……と、そんな心理的要因があったように思うのである。

 事実、徳川時代には、この薪炭分野の生産者と問屋がしばしば甲州街道でもめごとを起こしている。そういう新宿の薪炭問屋のひとつに、

 ――紀伊國屋。

 というのがあった。

 のちに小売書店の最大手のひとつ、紀伊國屋書店を創業することになる田辺茂一がこの家の長男として生まれたのは明治38年(1905)、日露戦争勃発の翌年である。晩年の回想記『わが町・新宿』は、おさないころの新宿の風景をこんなふうに叙している。現在のあの不夜城そのもののビルの街の、たった百年前の姿である。

 現在の歌舞伎町一帯は鬱蒼たる山だった。山のまんなかに池があり、その池のまんなかに島があった。

 現在の新宿南口には玉川上水(田辺は「多摩上水」と呼ぶ)があおあおと流れ、子供たちは泳いで魚をつかまえたという。

 電信柱には荷馬車の馬がつながれ、ときおり通行人にかみついていた。

 要するに、まったく田舎だったわけだ。最後の馬の風景など、往年の内藤新宿のあれこれを知る者にはことのほかうれしいじゃありませんか。あの「駅」――うまや――の歴史は健在だった。しかしながらこの駅は、明治大正期を通じて、だんだんと、べつの駅に取って代わられる。

 鉄道の「駅」である。

 もちろん田舎のことだから、旅客のあつかいが主ではない。もっぱら薪炭をはじめとする貨物のほうが重要だったろう。田辺茂一も七つか八つのころ、毎朝はやく父親に、

 「おい散歩だよ!」

 と言われ、手をとられて、新宿駅(当時は「停車場」)の貨物ホームへ行った思い出を記している。父親にとっては散歩ではなく、その日の入荷量を知るという業務の一部だったわけだ。

 このときの貨物列車はたぶん、明治22年(1889)開通の甲武鉄道のそれだったろう。現在のJR中央線。ほかにも新宿とその周辺には、

明治18年(1885) 日本鉄道(現在のJR山手線)
大正4年(1915) 京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)
昭和2年(1927) 小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)

 という具合につぎつぎと線路が敷かれ、駅がつくられ、しかしやっぱり人口は少なかった。誰も彼も、この新宿という街には、荷物のつみおろししか期待していなかったのである。

 その人口がにわかに増加したのは、大正12年(1923)9月1日、関東大震災がきっかけだった。

 マグニチュード7.9。死者・行方不明者計約14万。東京だけでも全戸数の7割が焼失するという大惨事だったけれども、この被害は、新宿から見れば、じつは対岸の火事だった。

 本所、浅草、深川、下谷、神田、日本橋、四谷、麹町、本郷、小石川……これら「東」の対岸の地域ではその後の復興がなかなか進まず、また余震への恐怖もあったのだろう、生きのこった人々はまるで亡霊から逃げるようにして西へ西へと移り住んだ。

 こんにちの地図でざっくり言うと、山手線内の、東半分から西半分へ。

 あるいはさらに西のほうへ。この避難民的なゴー・ウェストの行く先で、両手をひろげて待っていたのがつまり新宿の街にほかならないのだ。

 何しろそこは、震災の被害がほとんどなかった。人口は少ないし、土地はたっぷり余っているし、線路と駅はひととおり整備されていた。最後の要素はことに心理的に大きいだろう。なぜならそれは、出ようと思えばいつでも東の「東京」へ帰れることを意味するからだ。

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 そうして新宿の街とともに、田辺茂一も待っていた。田辺が家業の薪炭問屋を継がず、おなじ場所に小売書店・紀伊國屋書店を創業したのは大震災の4年後である。まだ22歳だった。もともと読書好きだったことは当然だけれども、私の見るところ、べつの理由もあったのではないか。もはや汽車は石炭で走り、夜の街には電灯がともり、工場ではコークスが用いられ、外国からは石油がたっぷり輸入されている時代には「たきぎ」「すみ」など、

 ――時代おくれ。

 と若者は見たのだ。

 あるいは、本ないし紙というものが、じつは「たきぎ」「すみ」とおなじく山の木々を原料とすることに心強さのようなものを感じたか。この時期の新宿はほかにも三越、伊勢丹というデパートがあらわれ、映画館があらわれ、劇場があらわれ、無数の大衆的な飲食店があらわれた。人口増の結果である。こんにちの不夜城そのものの大繁華街は、こうして急発進をとげたのである。

 現在、私たちの紀伊國屋書店に対するイメージはどんなものだろうか。

 店が大きい。何でも売ってる。トークショーなどのイベントが充実している。そのあたりか。だとしたらそれは、この書店以前に、そもそも新宿という街自体がそなえていたイメージに近いようにも思われる。

 もちろん大震災以後の新宿のだ。明治初期に「東の」日本橋にあらわれた丸善がもっぱら知的エリートを対象としたのよりも、もうちょっと広い、もうちょっと庶民的な、「知的公衆」くらいが相手の商売。

 こんにち支店が全国にあるのも暗合めいている。新宿という地名が全国あちこちに存在することと軌を一にするというか。もっとも紀伊國屋のほうは国外にも支店がたくさんあるから、その点では、新宿以上の存在になった。

(連載第13回)
★第14回を読む。

門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。
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