見出し画像

中国はかつて世界の最先進国だった/野口悠紀雄

★前回の記事はこちら
※本連載は第20回です。最初から読む方はこちら。

 人類の長い歴史で、中国こそが世界の最先進国でした。紙と印刷術を発明し、それを利用して紙幣を発行しました。これができたのは中国だけで、マルコ・ポーロは、「錬金術のようだ」と驚いています。

◆紙は中国で発明された


 これまで、「遅れた中国が、リープフロッグによって先進国を飛び越えた」ということを見てきました。

 しかし、人類の歴史を見ると、中国こそが、長い期間を通じて世界の最先進国だったのです。

 つまり、「中国がリープフロッグされて、追い抜かれた」ということになります。

 さまざまな分野において、中国は世界の最先端の技術を開発しました。

 まず、「紙」が、古代の中国において発明されました。紀元前2世紀頃(前漢の中期)に発明されたと考えられています。文字の書かれた紙が、古い遺跡から発掘されているからです。

 ただし、紙の製造は容易でなく、1人の職人で1日2、3枚しか作れませんでした。

 後漢の時代、西暦105年に、宦官であった蔡倫が、製紙法を改良して工程を簡単なものとし、使いやすい実用的な紙が大量に生産できるようになりました。

 蔡倫が使った材料は、 麻のボロきれや樹皮などでした。この製紙法の原理は、現在と基本的に変りません。

 蔡倫が紙を作ったのは、書写の道具として使うためです。

 これより以前、中国では、文字は竹簡や木簡に、あるいは絹に毛筆で書かれていました。紙は、竹簡や木簡のようにかさばることがありませんし、絹のように高価でもありません。したがって、紙の普及によって、書写も進みました。

 ところで、エジプトでは、古くから「パピルス」が使われていました。ただし、この材料は限定的なもので、広く利用できるものではありませんでした。

 またヨーロッパでは、古くから「羊皮紙」を使っていました。しかし、これは動物の皮ですから、やはり大量に生産できるものではありません。

 中国で発明された「紙」は、日本を含む東アジアや東南アジアに伝わり、インド、中央アジア、西アジア、さらにはヨーロッパに伝わりました。

 日本に伝わったのは7世紀頃です。イスラム世界には8世紀頃、スペインで紙が作られるようになるのは12世紀。そして、アルプスの北へ伝わったのは、14世紀後半になってからです。

 中国で紙を広く使うようになってから、千年以上も遅れています。先進国である中国と後進国であるヨーロッパの差が、いかに大きなものであったかが分かります。

◆印刷術も中国で発明された
 

 印刷術においても、中国が先行しました。

 木版印刷は、唐の時代(618年 ~907年)に始まり、宋の時代(960年 ~1279年)には、印刷と出版が盛んに行なわれていました。

 活版印刷は、11世紀の中国で始まりました。

 なお、ヨーロッパでは、15世紀に、ドイツのグーテンベルクによって活版印刷機が作られています。

 ここで、木版印刷(彫版印刷とも言います)とは、木の板に必要とする文字をすべて彫って版を作る印刷のことです。

 それに対して、金属などに文字を彫ったもの(活字)を1本ずつ並べて文章にした版を作り、色料をつけて印刷するのが「活版印刷」です。刷り終えれば版を解体し、活字は保存しておきます。

 欧米のような表音文字の場合には活版印刷が便利であり、中国語の漢字のように文字の種類が多い場合には、「彫版印刷」が向いています。活版印刷術が中国で発明されながら、その後発展することがなかったのは、このような理由によります。

◆中国だけが紙幣を使っていた
 

 マネーにおいても、中国は先進的でした。

 マネーは、当初、金貨や銀貨のように、それ自体が価値がある素材によって作られていました。ヨーロッパにおいては、歴史の長い期間、マネーは金属と分かちがたく結びついていたのです。

 中国でも、古くは硬貨を用いていました。しかし、かなり早い時点で紙幣を用いるようになりました。

 マネーの本来の機能は情報を伝えることですから、紙に情報を記録すれば、紙幣でも一向に構わないわけです。持ち運びの容易さ等の点で、紙幣は明らかに金属貨幣より優れています。

 実際、マネーは、金属貨幣から紙幣へと転換してきました。

 ヨーロッパで登場しなかった紙幣が中国で早くから用いられるようになったのは、中国だけが紙幣を作る技術を持っていたからです。

 つまり、高度の製紙技術と印刷術を持っていたからです。

 マルコ・ポーロは、『東方見聞録』(1298年)の中で、「中国の皇帝は紙をお金に換えてしまう。まるで錬金術師のようだ!」と言っています。

 いまでいえば、中国で電子マネーが広く普及しているのを見るようなものかもしれません。

◆唐の時代から紙幣が使われ始めた


 カビール・セガール『貨幣の「新」世界史』(早川書房)によれば、唐王朝において、すでに紙幣類似物が使われていました。

 商店は、客の貴重品を保管し、それを担保に紙の証書や受領書を発行します。この証書は取引可能だったので、一種の貨幣として機能しました。遠方と取引する茶商人などは、重い青銅貨の代わりに、紙の証書を携行したのです。

 また、国は、遠隔地と首都の間で貨幣を移動させる手間として、「飛銭」という為替手形を作りました。これは、硬貨と交換が可能で、地方政府と中央政府の決済や、商人の取引に利用されました。

 北宋(960年~1127年)は、紙幣を基礎とする貨幣制度を世界で最初に確立したといわれます。

 北宋にあった現在の四川省は、商業は盛んでしたが、硬貨の素材として一般的に用いられていた銅が産出されないので、鉄製の硬貨が使われていました。しかし、鉄は重くて持ち運びに不便で、しかもサビやすいので、不人気でした。そこで、これに代わるマネーとして、紙幣が考案されたのです。 

 西暦1000年頃には、紙幣が発行されました。当初は民間主体が発行していましたが、1023年に、国が唯一の発行者になりました。

 紙幣は「交子」(後に銭引)と呼ばれ、最初は鉄で、後に銀で裏付けられていました。

 なお、ヨーロッパで最初に紙幣が発行されたのは、1483年のスペインですから、中国に比べると、大分遅れています。

◆インフレを制御できなかった


 ただし、紙幣は、大きな問題を持っています。それは、過剰発行が起こりうることです。

 紙幣は製造コストが金属貨幣より遥かに低いので、増発されやすいのです。

 インフレを防ぐため、国は発行する紙幣額に上限を設けました。しかし、次第に自制が効かなくなりました。そして、最後には、制御不能なインフレーションに陥ってしまったのです。

 南宋(1127年~1279年)では、当初は銀貨を用いていましたが、1160年になると、商人たちの間で流通していた手形の一種である「会子」が貨幣として認められました。そして、国だけが発行主体となり、銀の裏付けを持つ法定通貨となりました。

 しかし、通貨の発行が増加し、価値が維持できなくなります。さらに、金王朝との戦いで国が疲弊しました。さらには、首都が大火に見舞われ、復興のため大量の紙幣が発行されて、価値が低下しました。こうして宋の経済は悪化し、長い戦いの末、フビライ・ハンに滅ぼされたのです。

 元(1271年~1368年)では、「中統鈔」という紙幣が発行されました。銀で裏付けるなど、価値を維持するための努力が行われ、タイ、ミャンマー、イランにまで流通しました。

 マルコ・ポーロは、こうした状況を見たのです。

 しかし、元でも過剰発行とインフレが生じ、銀との兌換性は失われ、価値は90%も低下しました。1287年に、非兌換紙幣である至元鈔を発行して貨幣制度を再建しようとしましたが、価値は維持できませんでした。

(連載第20回)
★第21回を読む。

■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。



【編集部よりお知らせ】
文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「#みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「#みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!

▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!

★2020年4月号(3月配信)記事の目次はこちら

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください