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片山杜秀さんの「今月の必読書」…『石坂洋次郎の逆襲』

現在形・未来形の文学として

『青い山脈』に『陽のあたる坂道』に『あいつと私』。石坂洋次郎(1900〜86年)は戦後日本の国民作家のひとりだった。大正末年から十数年、青森県や秋田県で女学校や中学校の教師をし、その経験の生きた明朗で健康な青春小説で人々を魅了した。しかもその明るさは戦後民主主義の楽しげな夢と結びついていた。戦後も何十年か経ち、楽しげな夢が形骸化するにつれ、石坂文学も次第に読まれなくなっていった。

というのは、いわゆる世間の理解である。しかし、著者はそれを大いなる誤解として大胆に退ける。石坂が戦前から戦後まで一貫して追求した主題は、社会の常識的価値観に根差した明朗さや健康さとはまるで違う。戦前の石坂の出世作『若い人』を思い出そう。ヒロインの女学生は、未婚の母から生まれた私生児であり、母は料亭を立派に経営している。ヒロインはそんな家庭環境に何の引け目も覚えず、むしろ誇っている。それは決して痩せ我慢ではない。本気なのだ。父親の強権的支配が存在せず、経済的に自立できている女の家。儒教封建道徳からも、戦前の家族国家からも、戦後民主主義の幸せな家庭像からも、歓迎されないだろう父や夫の不在の女の家。しかもその家は料亭という名の人々の自由な集いの場。そここそが男性的暴力から真に自由なユートピアではないか。

石坂のその後の膨大な作品群は、この『若い人』のユートピアの限りなき変奏。それが著者の石坂観の根底だろう。言われて納得である。父や夫がそれなりに活躍する小説でも、彼らを母や妻に対していかに引かせるかに、石坂文学の真骨頂は確かにある。石原裕次郎・芦川いづみ主演の『あいつと私』の映画版で、私が最も印象的に記憶するのは、轟夕起子扮する、大柄ですべてを包み込むような、しかも経済的に自立した妻の前で、弱気のときのチャップリンの芝居のように絶妙に無力さを表現する、宮口精二扮する夫の姿だ。しかもこの夫婦はうまく行っている。

要するに、石坂文学とは、えばる父や夫、それと相似したコワモテの右翼や教条的左翼、父権の裏返しとしての女性の強権化の主張など、およそ暴力的な一切合切を否定したい文学なのだ。そして、暴力を浄化する母の無限抱擁の力に希望の夢を託する。その意味で石坂の文学は、戦後民主主義とかと関係づけるよりも、シングル・マザーの時代を予見し賛美する、現在形・未来形の文学として読まれねばならない。石坂の母の包む力へのこだわりは、石坂のよく学んでいた柳田國男と折口信夫の女の力に注目する民俗学に思想的背景を持つというのが、著者の見立てで、そうして生まれた石坂文学の先に、女性優位の平和な家庭を描くマンガ『サザエさん』が見いだされもする。

石坂文学のイメージにコペルニクス的転換を迫る批評の傑作である。

(2020年5月号掲載)


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