観月_修正

小説 「観月 KANGETSU」#1 麻生幾

第1話
チョコレート箱(1)

10月2日 大分県 JR九州・日豊(にっぽう)本線

 その気配を感じるようになったのは、3週間くらい前のことかしら……。

 七海(ななみ)は、時折、ぽつりぽつりと車窓を流れゆくネオンを見つめながら記憶を辿(たど)った。

 会社の行き帰りの時もあったし、休みの日に一人で買い物に出かけた時もあった。

──誰かに後を尾けられている。

 そう感じ始めたのは、それほど前のことじゃない。

 ある時は、遠くから見られている、そんな気配も感じるようになった。それも何度も──。

 涼(りょう)に初めてその話をしたのは一昨日のことだ。

 ノスタルジックな雰囲気が観光客に人気の別府(べっぷ)市の鉄輪(かんなわ)温泉。そこからほど近い、温泉噴気を活用した地獄蒸しで有名な和食屋で、涼と会話した、その時の光景を、車窓に広がる漆黒の闇の中で七海は蘇らせた。

 31歳になった七海は、別府国際大学の考古学教室で助手という職を得てから6年。

 一つ年下の涼とは3年越しの関係である。そろそろ長い春に終止符を打たなきゃ、と思うようになっていたが、なかなか踏み込めずにいた。理由は特にあるわけではない。というより涼への純粋な愛情はずっとあるし、カレの気持ちも同じ、という確かな実感もある。

 ただ、忙しい毎日を過ごすうちに、という言い訳が先で、結局は、なんとなく─そんな言葉でしか表現のしようがなかった。

「考えすぎやねえん」

 和食屋の隅にあるテーブル席で七海が打ち明けたことに、涼は真剣に取り合わず、それどころか笑い飛ばしてから生ビールを呷った。

 涼は、別府中央署の刑事課に勤める、巡査部長の刑事である。昨日まで、別府市郊外のコンビニエンスストアで発生した強盗事件の捜査にかかりっきりで、逢うのは3週間ぶりだった。

「まじめに聞かんのなら帰る」

 七海は真顔でそう言って荷物をまとめ始めた。

「ごめんさい、ごめん」

 涼は慌てて謝ってから、

「地域課に頼んで、パトカーで定期巡回してもらうけん」

 とは約束してくれた──。

「ところで、やんがち始まる、杵築(きつき)でん観月祭(かんげつさい)、オレ、非番、確保したけんな!」

 涼が身を乗り出して言った。

 観月祭とは、七海の自宅がある杵築に古くから伝わる伝統行事で、10月中旬の夜(よ)、竹細工の灯りや行燈(あんどん)の雅(みやび)な光が城下町を幻想的に照らす祭りである。

 石畳に幾つも並べられる灯火を思い出した時、七海の脳裡に一人の姿が蘇った。暖かく、優しかった父の姿は、七海の中で泣きたいほどの思い出だった。しかし、七海は、その暖かさと優しさに二度と触れることはできないのだ……。

 駅に着くことを告げるいつもの音楽とアナウンスが車内に流れたことで、七海はハッとして現実に戻った。

 残業をこなしたために帰りはとうとう最終電車となってしまった。

 七海が勤務する大学の最寄り駅であるJR別府駅から普通電車に揺られ、北へ約30分。坂道や武家屋敷、そして小京都的な情緒溢れる城下町として知られる街の玄関口、日豊線の杵築駅。数人の乗客たちとともに降りた七海は、すぐ近くにある駐車場に足を向け、黄緑色に近いエアーイエローのトヨタ、シエンタに乗り込んだ。

 この駐車場は本当に助かる、と七海はあらためて思った。

 何しろ、ここに朝から駐めていても、200円の料金だからだ。

 15分ほど車を走らせて辿り着いたのは、杵築市街地の「商人の町」と呼ばれる最も賑やかな一本道だった。

 商店や飲食店が軒を並べる道には、すでに人通りはなく、七海はいつもの角で右のわき道を上った。

 しばらくいった民家の合間に借りている駐車場はあった。

 そこにシエンタを駐めた七海は、月明かりに幻想的に照らされた杵築城へちらっと視線をやってから自宅へと足を向けた。

 民家の灯りはほとんどなかった。

 最終電車に乗るのはもちろん始めてのことじゃない。だが、今夜の七海はいつになく不安を感じていた。もちろんその原因は、3週間前からの、“その気配”にあるのだが……。

 思わず七海は足早となった。

 しばらく行くと、遠くに、自宅の灯火が微かに見えた。母はいつも、私の帰りがどんなに遅くても、1階のすべての電灯を点けてくれている。帰宅した時、寂しい思いをさせたくない、という母の優しさだった。

──今夜も、あの暖かい電灯がついている。

 七海がそう思って微笑みを浮かべた時だった。

 背後に、また、“その気配”を感じた。

 七海はさらに足を早めた。

 自分のパンプスの足音に重なる、別の硬い足音に七海は気づいた。

 七海は後ろを振り向く勇気はなかった。

 馴れた坂道なのに、なぜか足が重く感じて、なかなか進まないような錯覚に陥った。

 自宅の玄関に辿り着くためには、次の角を曲がって、そこからまだ30メートルほど行かなければならない。

 そんな時、重なる足音が消えた。

 七海は足を止めた。背後を向きたくはなかったが、明らかに、その足音は聞こえなくなった。

 大きく息を吐き出した七海は、家に繋がる角を曲がった──。

 サングラス姿の男が目の前に立っていた。

 男は、突然、七海の顔に近づいた。

 七海は悲鳴をあげた─つもりだった。だがその声が出ない……。

 男の息が七海の頬に触れた。

──殺される……。

 なぜかそう思った。

 ところが、突然、男の姿が目の前から消えた。

 驚いた七海がそこへ目をやると、目の前の地面で、どこから出現したのか、一人の老いた男が、七海を襲った男の上に覆い被さっていた。

 その老人の顔が、街灯の灯りで、一瞬、垣間(かいま)見えた。

「おじさん……」

 七海は思わずそう呟いた。

 突然、目映いライトに照らされた。

「何しよんのや!」

 またしても別の男の怒声とともに、赤色回転灯とヘッドライトが辺りを明るくした。

 襲った男は、老人を強引に振り払うと、坂の下へと一目散に逃げ出した。

 七海の視界に入ったのは、「逃げるな!」と声を上げて男の背中を追う、涼の姿だった。

(続く)
★第2話を読む。


■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。



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