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「夜のまっただなか」 島本理生

「琴子ちゃん、さっきの話で俺に同情したんだろ。本当に簡単だよな、おまえ」
そう馬鹿にしたように言われた瞬間、全身の血が冷えました。
違います、違います、と何度も否定したら、後ろの壁に押し付けられ、お酒と甘い吐息にまみれたキスをされました。私は何度も北川さんを押し返そうとしながらも、心の底では泣きたくなるほどの安堵を覚えていました。
 (p.10)

小説に出てくる北川さんは、もともと俳優志望で見た目の良い年上の男性です。
「おまえ」と呼ばれることで感じてしまう特別感、大人の魅力‥‥。

北川さんに軽薄に迫られたいと心の奥底で願うようになりました。 (p.16)

このように思う琴子ちゃんに、とても共感してしまいます。
私も、北川さんのような男性が好きだから。
痛い目を見ることになるのを理解しているのに――。


2月のキスは、マスク越しのキスでした。
駅で別れる際にする、恒例のキスです。
コロナの影響ではない、と思いました。
その日は、腕を組んでも手を繋いでくれなかったからです。
いつもは私が腕に触れた瞬間、手を繋いでくれるのに。
巷では、“恋人繋ぎ”と呼ばれるものです。
この響きがうれしくて、全神経を右手に集中させてしまうのです。

それから5か月経った昨夜。
久々に会った彼は、やっぱり素敵でした。
静かなレストランで、ゆっくりと食事をしました。

“マスク越しのキスは、このご時世では最上級の愛なのかもしれないな…”
2月のキスを思い出して、そんなことを思いながら店を出ると、彼はマスクをとってキスをしてきました。
そのキスの感じから、“愛されてないなぁ…”と感じました。
でも、それでいいのです。
軽薄に迫られたい」という琴子ちゃんの気持ちと一緒で、それ以上は何もいらないのです。
傷付きたくないので、何も求めやしないのです。
ただ、その一瞬に安堵してしまったことについては、否定しません。

彼と逆方向の電車に乗って、別の男性に1時間遅れの返信を打ちました。
ものすごく、会いたくなりました。

私たちは信じるものを少しずつ間違えているのかもしれません。 (p.28)

どちらの男性にしろ、私にとっては間違いなのです。
だから、男性とのあいだに心の壁をつくっています。

ただ、どんな感情も忘れて、幸福感しか無いことが稀にあります。
のちにそれに気づいたとき、全身の血が冷える感覚になります。
そしてまた、違う男性へと逃げるのです。

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「夜のまっただなか」 島本理生 『夜はおしまい』(講談社、2019) 第1話

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