見出し画像

会話での想像力

先日読んだブログか何かで書いてあった。

日本語は読み手が推測しながら読むことを前提として書かれる。
一方、英語をはじめとする欧米言語は読み手の推測を求めない。

特に日本語や言語学を学んだわけではないけど、これかなり納得。

日本語では動詞が最後にくるから、実行する内容は文章の最後まで読まないとわからない。
修飾語は一般的に修飾される単語の前に来るから、なんのことを言っているのかも読み進めたり聞き進めないとわからない。
同音異義語も桁違いに多く、文脈によって捉え方が異なる単語も多い。
これでは、推測しないとテンポのいい会話はできない。

もちろん日本語にも、個々の物事を正確に表現する名詞(学生なら小学生、中学生、高校生、大学生、大学院生...)や、その場に適した動詞、尊敬語、謙譲語等々あるけれど、名詞や動詞を多少ゆるく使ったところで伝わるし、140文字のTwitter、31文字の短歌、17文字の俳句など、「短く表現して読み手の想像力に任せる」ことも粋とされる文化背景がある。

つまり「察する」「行間を読む」という文化がある。
「皆まで言うな」と言うやつである。
行間に込められた思いを察する、文脈に応じて柔軟に推測する。
「ヤバイ」の意味なんて何個あるの?ってなもんである。読み手の推測なしには会話は成立しない。


ドイツ語ではそうはいかない。
特に初級ドイツ語では「genau (ゲナウ): 正確に」言うことが求められる。

例えば、同じ学生でも
高校生くらいまでの学生を指す場合はder Student (男子学生) / die Studentin (女子学生)、
大学生なら場合は der/die Studierende
と言ったように、異なる名詞を使う。
動詞も時と場合で異なったりする。
1つ1つの物事への描写がとっても正確。


英語でもドイツ語でも、何かを説明するときに「ここまで言えばあとは伝わるだろう」「察して動いてくれるだろう」は通用しない。

だから、何か指示を出す際は細部まで細かく正確に、1から10まで説明することが求められる。気がつくだろう、わかるだろうではダメなのだ。
誰も察してくれない。


最近、ラボメイトから研究の相談を受けたり、データを一緒に眺めて議論することが増えた。英語で、オンラインでだけど。

明らかに間違った見方をしていれば訂正するけど、そうでなければ「こうすべきだ」とは言わない。実際に研究するのは私ではなく彼らだから。
データから読み取れる可能性、彼らが取れる方針の可能性を挙げて、それぞれでやるべきことを提示する。
「どの方針を採用したい?」って本人の意思を尊重する。

その過程、特に可能性ややるべきことを示すときには、なるべく誤解のないように、二度手間にならないように、自分が考えていることを正確に伝えるよう努力している。
I mean... (私が言いたいのは...)って何回言うねんくらい言ってる。
私が言ってることわかる?って結構確認する。
間違った実験をしてしまうのは本人にとってデメリットが過ぎるから。


研究関係の話題ならできることが、テンポの速い日常会話では難しい。
だって、日本語の感覚だとそんなに細かく話さないじゃない?
推測しない文化に慣れるのにはもう少し時間がかかりそうです。

ドイツ語は日常会話ができるようになるまでまだまだ道のりは長いけど、英語くらいはもっと話せるようになりたいので、ラボメイトやポスドクさんと積極的に話して、欧米言語独特の「察しない」感覚を手に入れたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?