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Night Blooming Lily #2

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微睡の中で聞くその電子音はとてもちいさな音だけれど、毎朝僕を責めたてる。背中を向けたまま(いつでもこの姿勢だ)、大きなベッドの真ん中に横たわる不可視境界線のこちら側、僕はただひたすらに眠っているふりを続ける。妻は毎日数字を記録する。僕の嫌いな折れ線グラフが日々伸びていく。僕は見たくない。妻のメンタルと身体のコンディションを表すそれを、寝室の鏡台に置くのは僕に見せたいから(私頑張ってるのよ、あなたももっと協力して)。僕は絶対に見ない。

女性ホルモンという空恐ろしい分泌物は、一生のうちでティースプーン一杯ほどしか分泌されないそうだ。この分泌物が、妻を狂女にしてしまう。誰だ、この女は。僕はもう、疲れてしまった、妻を抱くことも、妻を宥めることも。妻と話すことも、妻の顔を見ることも。僕が好きになったのはこんな頭のおかしい女ではない。何故、こんなにも子供を欲しがるのだ?意味がわからない。子供なんて授かりものじゃないか。怖い女を前に僕は勃たなくなってしまったのだ。狂った女の狂った母親が、呪術じみた漢方薬だの、精力つけろと言わんばかりの食品だのを送りつけてくる。僕は家で食事を食べられなくなった。僕は家で寛ぐことが出来なくなった。
もちろん、最初の頃は僕だって協力した。検査にも行った。屈辱的なことではあったが、精液検査だってした。僕にも妻にも特に悪いところは無かった。人口受精を2回。上手くいかない。体外受精にしようか、と医師が言い始めた辺りから、僕はもう耐えられなくなってしまったのだ。
それで、毎晩飲み歩くのが夜の習慣となってしまった。

「Bar Iris(バーアイリス)」。
僕はここでだけ本当にリラックスして呼吸出来る。どうしたら良いのか、わからなくなっていた。仕事に集中すること、酒を飲むことしか出来なくなっていた。
(人生ってもう少し、楽しくたっていいんじゃないか?)

家庭では最悪な時期だが、良いことだって、二つほど、ある。
一つめ。僕は夢を叶えて、建築家になれた。結婚してすぐ、ひとつ隣の駅に建築事務所を構えた。僕の人生において幸せの絶頂だったと言えるだろう。僕はこの仕事を愛しているしずっとこの仕事を続けていく。

二つめ。
「Bar Iris」のマスターは元営業マンだった。こんなに寡黙な男が?よく頑張ったな。彼は仕事のストレスを抱えた日々、バーでカクテルを飲むのが唯一の楽しみだったそうだ。そして、ある時、バーテンダーになるというEpiphanyがやってきたそうだ。朝の、満員電車の中で。僕は感謝している。ハグしてキスしたいくらいに。彼のおかげで僕はサンクチュアリを手に入れた。この場所に、僕がどんなに救われていることか!

「Bar Iris」で、昔、大好きだった女の子と十数年ぶりに再会できたのだ(三つめの良いことだ)。

そして。僕は今彼女と一緒にいる。

「言えばいいのに。言ってくれればいいのに。私のことが好きだったって」

いや。実際は呂律が回っていなかったのだが。
「言ったらどうなる?」
「私が嬉しい」
「嬉しい?」
「そう」
「……言わせたいんだ?」
「うん。聞きたい」
「……そんなこと、簡単に言えないよ」
「どうして?結婚してるから?」
僕が黙っていると彼女はまた歩き始めた。
五月、真夜中、空気に初夏の予感を感じる。雨の匂いも。歩道を歩いて行く彼女を僕はゆっくり追いかける。彼女の香り。雨の匂い。

ああ、そうだよ。僕はずっと君のことが好きだった。君の隣りで眠れるあの教室。ずっとこのまま、中学生のままでいてもいいって思えるくらい、居心地の良い一番前の席、君の隣りだから。目を悪くしたらずっと隣りの席でいられると思って、夜中に薄暗い間接照明で本を読んでいたんだ。君が読書好きだと知ってからは、毎回図書委員になった。君が図書室で借りて読んでいた本、君が返却した後にいつも借りていたんだ。おかげで順調に目は悪くなってくれた。その中には建築家の男が出てくる小説があって、僕は大いに影響を受けたのだ。
先生に呼ばれた時にツンツン、と脇腹をつついて起こしてくれるのを楽しみにしていた。僕はくすぐったがり屋だから、肩を叩くよりも脇腹をツンツンした方が一発で起きると、彼女は知っていたのだろう。時々狸寝入りで君の指を見て見惚れていた。小さめの手、可愛い指、桜貝の様な爪。

「配偶者ではない男の人に、好きだって言われたら」
と彼女は言った。
「自分のこと、もう一度、信じてあげられると思う」
……意味がわからなかった。ただ、わかったのは、彼女が今自分を信じられなくなっているということだけ。
彼女は公園の入り口に立ち、手招きした。
「林田くん!来て来て!」
僕は彼女に呼ばれるまま、歩いて行く。
「ほら!見て、躑躅、咲いてる」
白、どぎつい色のピンク。
外灯に照らされて、見事に咲いている。
「白い躑躅って、百合に似てるよね」
彼女は言った。花を手折り、枝に続く下の部分を千切って、唇に刺し蜜を吸った。
「うーん。やっぱり、薄いピンクが一番美味しい」
「そうなの?」
「うん。白しかないけど、吸ってみる?」
「うん」 
彼女は僕の為にまた花を摘む。下の部分を千切って僕の唇に刺す。唇に触れる指を喰むことは我慢した。蜜の味。また、彼女の指から蜜よりも甘い香りが立ち上った。
「あ、雨」
彼女はもう一つ花を摘むと、公園の大きな滑り台の中に入って行く。僕も小さく屈んで中に入った。
「甘い。うっすらと。……でも一度でいいかな。」「そう?結構、中毒性があるのよ」
そう言うと彼女はいきなり、僕にキスをした。期待していたことが起きた。想像以上の甘い衝撃が全身を貫く。くらくらする。僕は思わず彼女を抱きしめた。
彼女の舌が僕の唇を舐め、口をこじ開けた。意外に乱暴なことをするんだな。完全に主導権を握られた。甘やかな敗北感と共に、僕は彼女とするキスに夢中になる。彼女は僕の首にしがみつく。花が落ちた。抱き合いながら、長いキスが続く。ふたりとも何時止めればいいのかわからなくなってしまう。頭が痺れる。上昇してゆくふたりの体温。電子音よりもずっと明確に解るその熱さ。彼女の香水がさらに甘く匂い立つ。絶対に、彼女は、濡れている、と。僕の身体のアンテナが教える。確かめなくては。僕はワンピースの裾をたくし上げた。彼女の太腿は湿り気を帯びている。柔らかな肉を揉みしだくように、弄る。内腿を触ったらべたべたしている。
唇を離し、僕は聞く。
「汗?……それとも?」
「……やだ。聞かないでよ」
「花の蜜と同じもの?」
彼女を立たせたままワンピースの中に潜り込む。白地に花柄のそのスカートのかたちはまるで白躑躅。僕は悪い虫だろうか。そして僕はさっきの躑躅のそれよりもうんと甘い彼女の蜜を吸った。彼女の吐く甘い声に喜び、興奮しながら。

しっかりと彼女を逝かせてから、僕は言った。
「君のことが好きだった。でももう二人とも既婚者だ。でも好きだ。また、会いたい」
自らの意志で。
「林田くん……ありがとう。ごめんなさい。私酔っ払い過ぎちゃった。林田くんに甘えちゃった……お願いだから、今夜のこと、忘れて。私、帰るね
「今タクシー呼ぶ。歩いて帰るなんて危ない」
彼女の為に、タクシー会社に電話をして、タクシーを呼んだ。真夜中だったし、こんな色っぽい酔っ払いを歩いて帰らせる訳にはいかない。
「ありがとう。ごめんね。本当にごめんなさい」
彼女は何度も謝った。謝っているうちに泣いていた。
「いいんだ。……いいんだよ」
そう言って彼女を抱きしめて優しく背中を撫でた。彼女は何度もごめんね、と言いながら泣いた。彼女が泣いているというのに、僕は僥倖を享受しているということが申し訳なかった。僕は彼女の香りを吸い込み、全身に染み渡らせ、忘れないように記憶した。その香りの名前を知るのはもう少し後になる。

あの夜の花の蜜は、僕に生きる力を与えた。僕が再び彼女に恋しているということは、明白な事実。彼女は忘れて、と言ったけれど。僕はまた会える、という希望を持ってしまった。いや、それは野心の様なものかも知れない。それとも、単なる欲望か。そんなことはどうでも良くて。恋する女は美しくなるが、恋する男もまた、生命力が漲るもの。酔いに任せてあんなことをしてしまったけれど、全く後悔していなかった。妻に対する罪悪感が全くないことに驚き、自分の厚かましさに驚いたが、同時に妻に対してとても優しくなれた。それも、とても自然に。

Bar Iris。定休日以外は必ず寄るようになった。
でも、彼女は現れない。それでも良かった。 
会いたい。でも会えなくてもいい。 
抱きたい。でも抱けなくてもいい。
彼女が幸せでいてくれるなら。
僕のことなんて忘れても……いや。それは嫌だな。僕のことを時々は思い出して欲しい。こんなにも甘い矛盾と葛藤は生まれて初めてだった。

あの香りの記憶を呼び覚ますだけで、彼女のことを想うだけで、僕の身体はどうしようもなく反応する。勃たなくなってたなんてこと、まるで最初から無かったみたいに。
彼女のlove,sex,kiss 朝からずっと待ってる。
この曲、子供だった僕には理解出来なかったけれども。今ならわかる。
イケナイコトに決まっている。だから甘美なのだ。
それでも、僕はこの恋をいけないことだなんて、これっぽっちも思っちゃいなかった。それが自分にとって、余りにも自然な感情、自然な欲求だったから。彼女に会えなくても、あの奇跡みたいな夜を僕はありありと再現することが出来た。

例によってサンクチュアリで酔っぱらいの最終仕上げをしてから帰宅した。ドアを開けた瞬間、彼女の香りがした。間違いない。あの香りだ。
「おかえりなさい」
寝室から妻の声がした。僕は寝室を覗く。間接照明の落ち着く灯りの中、妻は薄いピンクのレースのランジェリーを身に纏って、ベッドに寝そべり、スマホを弄っていた。
「……ただいま」
僕は動揺しながらもその香りをもっと吸い込みたいと思った。
「どうしたの。なんかすごい格好してるね。それにいい匂いがする」
「今日ね。ネイルサロンに行ってきたの。見て!可愛いでしょう?」
妻は尖ったネイルを見せびらかした。爪も淡いピンクで、キラキラとしたビーズ?の様なものが付いている。
「そうだね、すごく可愛いよ。どうしたの?」
「あのね。私昨日から物凄くエッチな気分なの。あなたが忙しくて、ずっとしてなかったでしょう?あなたとエッチなことしたくて、こんな下着買ってみたの。そしたら、ネイルもやってみたくなって。ねえお願い。ちょっとしてみよう?」
妻は淡いピンクよりも、ハッキリした色の似合う美人だ。美人だが少しキツ目の猫顔でキリッとしている。薫子のあの香りがした。妻の身体から。
いい塩梅に酔っている僕は言った。
「うん、いいよ、もしも、いつもと違うことをしていいなら」
「えっ、なにするの?」
「ちょっと目隠しして、ちょっと縛ってみたい」
「……わかった。でも痛いのとか、怖いのは嫌よ?」
僕は妻のスカーフをクローゼットから数枚取り出し、妻に目隠しをした。そして両腕を頭のうえで縛った。妻が興奮しているのがわかる。吐息が漏れている。
「いい香りだね。香水なんて、珍しい」
「本当に?これ、ネイルサロンのオーナーさんに分けて貰ったの。いい香り、って言ったら、私には似合わないから、どうぞって」
「へえ……凄くいい香りだ。もう少しつけたいな。ほら、この辺り」
僕は妻の鼠径部をスーッと撫でる。妻は身をよじらせた。
「鏡台の上に、あり、ます」 
気の強い妻が従順なふりをしている。鏡台の上にちいさな硝子のスプレー瓶が転がっていた。
中身は澄んだ琥珀色。瓶から漂う香りはまさしく僕を狂わせる彼女の香り。僕は言った。
「僕は君の旦那さんじゃない。君は知らない男に捕まってしまった、と想像してご覧」
「……うん。目隠しされて縛られて、それだけでも凄いの。でも、あなたの妄想ごっこ、面白い……あっ!」
僕は先ほど触れた妻の鼠径部や内腿に香水をシュッとスプレーした。僕はあの夜の彼女を思い出す。

「君はすごく怖いんだ。知らない男にこんなことをされて、声が出ない。でももの凄く感じてしまう。でも怖い。でもだからもの凄く感じる。……ほら、もう、こんなに……」

僕はあの夜の彼女を思い出す。甘ったるい香りと花の蜜と雨と涙。香水の香りを僕は吸い込む。罪深い僕は言った。

「声を出しちゃいけないよ」

僕は目を閉じて妻を抱いた。




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Night Blooming Lily #2

りりかる

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