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僕の過ち|ショートショート

 あの日の空気を、まだ鮮明に覚えている。新しい部屋の匂い。カーテンを付けていない窓から入る夏の風。段ボールの重み。
 たぶん、僕は間違った。浮き立った心でいた僕は、浮いているのが自分ひとりで、君はきちんと地に足を着けていたことに気づかなかった。

***

 
 運び込んだ、合計21箱もの段ボール。それらを開封する気力もないままに、僕たちはしばしフローリングの床にへたり込んでいた。真っ青で眩しい空が広い窓から覗く。額からは汗が流れ、汚れてもいいやと選んで着ていたTシャツの首元は色が変わっていた。それは君も同じで、髪が長い分か僕よりも辛そうにしていた。幸い電気の手配は間に合ったから、クーラーを付けて涼を取る。ぱたぱたとTシャツの襟を持って自分に風を送る僕の横――と言っても人2人くらい入りそうな距離がある――で、君は扇子で自分の顔を扇いでいた。その必死な様子に少し笑うと、きょとんとした顔でこちらを見る。色の白い頬が、暑さで火照って赤くなっていた。なんでもないよ、と手を振ると、君はちょっと座る場所を変えて、僕にも扇子の風が当たるようにしてくれた。ありがと、と言うと、どういたまして、と返ってくる。一文字足りない会話。そろそろ汗も引いてきたし動くか、腰を上げようとしたところで、手を忙しなく動かして目を閉じたまま、ぽつんと君が呟いた。

「わたしね、昨日死のうと思ったんだ」

 へ? と僕は間抜けにも聞き返したと思う。言葉はただの音声記号として頭を通り過ぎた。熱中症気味だったのかもしれない。聞き返したのに、君はこっちに目もくれなかった。相変わらず必死な様子で自分の顔を扇いでいる。熱中症気味だったのは君の方かもしれなかった。

「えーっと、とりあえず荷物開ける?」

 僕の声に、ようやく君が目を開いて僕の方を見る。ぽっかりした眼差し、何もかもを手放したような無表情。僕は一瞬はっとしたけれど、それは気のせいかと思うほど僅かの間にいつも通りの表情にすり変わって、すぐに現実かどうか分からなくなった。だからもう、何も言えなくなった。ごろごろと転がる段ボールが、ひとまずは目前の敵で、それを片付けるのが最優先事項だった。あーでもない、こーでもない、と言い合いながらあれやこれやをあれやこれやの場所に置いていく。そうこうしているうちに冷蔵庫やら洗濯機やらが搬送されて、がらんどうだった箱が一気に家になっていく。君はいつも愛想がいいから、初対面の業者とも和気藹々と話をしていて、そのおかげかどことなくサービスが丁寧だったような気がする。へこへこと頭を下げるだけ下げて、ひたすら邪魔にならないように段ボールの開封に勤しむ僕とは大違いだ。1日はそうして過ぎ、君が選んだグレーのソファに並んで座って、持ってきた小さなテーブルで晩ごはんを食べる頃にはふたりともくたくただった。だから、その頃には君の言葉も忘れていた。否、忘れてたわけじゃないんだけど、考えられるだけの余裕が僕にはなかった。真新しいきれいなお風呂にふたりで興奮して、真新しい広いベッドとお高かったマットレスの寝心地にもふたりで興奮して、明日はあれしようこれしようと言い合った。電気を消したベッドで僕は、両手に君を抱いて同じシャンプーの香りを吸い込んで、君の夢を見た。

 そして朝目覚めると、君はいなかった。

 昨日片づけ途中だったものたちはそのままで、君の姿だけが見当たらなかった。ごろりと広いベッドに横たわって待ってみても帰ってこない。連絡してみても繋がらない。君の残り香だけがあって、声も眼差しもどこにもない。胸がざわめいて、昨日一緒に晩ごはんを食べたテーブルを見て、そこに昨日まではなかったものを見つけた。ころんと丸くて横長いフォルムの箱。君がいれば、ビロードだかスエードだか、その布地の種類を得意げに話すのを聞いたに違いない。でもその布地は君があまり好まない色で、君はきっと文句じゃないふりをして文句を言ったに違いない。そんなことは分かるのに、君が今どこに居るのかは分からない。手持ち無沙汰を持て余した僕は、ずしりとした重みのそれを手に取り、ぱかりと蓋を開けた。大きさだけが違う、ふたつの小さな輪が僕を出迎えて、それが君の目のようで、僕は思わずやあと挨拶しそうになった。柔らかなカーブを描くその姿はきっと君の好みで、小さい方のそれはきっと君の指にぴたりと嵌まるのだろう。それを着けた君の顔が鮮やかに脳裏に浮かんで、心臓が少し小さくなった気がした。早く、君の足音を聞きたい。

***

 
 あの日の空気を、まだ鮮明に覚えている。新しい部屋の匂い。カーテンも付いていない窓から入る夏の風。段ボールの重み。君の消えた部屋。君が置き去りにしたふたつの輪。
 きっと僕は間違えた。熱に浮かされていた僕は、その熱で君が逆上せてしまうことにも気づかずに、ただひたすら君を抱き締めた。





【完】

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