見出し画像

トレーディングカードゲームの一強環境が「却って楽しい」のは本当なのか

ほとんどのデッキ構築型トレーディングカードゲーム(以下TCG)は、麻雀やトランプ、将棋と大きな違いがある。ゲームを始めるより前に、各々が集めた好きなカードを組み合わせたデッキを用意し、異なる山札での対戦を行う事だ。これにより同一のTCGでありながら自他のデッキが変わる度に今までにない新鮮な体験を得る事ができ、また周囲の環境における流行のデッキを読む事によりゲーム開始前から有利を得ようとする、いわゆるメタゲームの概念も生まれてくる。デッキ構築それ自体も楽しい要素で、自分の個性を表現する手段とする者や、極端な場合だとデッキ構築だけで満足してしまい実際の対戦をおろそかにする者すらいる。TCGが他の多くのアナログなゲームの中でも特に若い人々に浸透しているのは、このデッキ構築の要素が大きな理由である事はほぼほぼ間違いないだろう。

ところが、これらの事実と矛盾するような言説を見かける事がある。先述のメタゲームの観点において、多くの種類のデッキに勝ち目があるような状況よりも、特定の一種類(あるいは2つか3つ程度の少数)のデッキしか「握るに値しない」状態の方が、却って楽しいと言う者がいるのだ。TCG最大の長所であるデッキ構築の要素が大幅に制限され、麻雀か何かと本質的に変わらない状態に陥った状態であり、事情を知らずに聞けば「え、なんで?一強のTCGやるぐらいなら将棋でもやってればよくね?」と言いたくもなるだろう。果たして一強環境大好きっ子たちは、それのどこに魅力を感じているのだろうか。

開発者視点だと、一強環境はNG中のNG

以後はプレイヤー視点での一強環境の魅力を探っていこうと思うが、それよりも前に一つ、はっきりとしている事実がある。ある種のプレイヤーにとって一強環境は面白いものがだ、TCGを作る会社にとって絶対にやってはいけない失敗なのは間違いない。以前の記事でプレイヤーの分類として体験重視(ティミー)、独創型(ジョニー)、競技志向(スパイク)の三種類があると述べたが、一強環境を好む競技志向プレイヤーは一定数存在する反面、その逆である一強環境を好む「非」競技志向プレイヤーは、ほぼ存在しない。他の分類のプレイヤーからしてみれば一強環境は未知のデッキと戦う体験周りの誰とも違うデッキを使う体験を奪われるので、相容れる要素が無いからだ。(なお、「一強環境の方がメタカードで勝ちやすいから好き」なファンデッキ愛好家も存在するが、「勝ちやすいから好き」は完全に競技志向プレイヤーの発想であり、つまるところこのタイプの人は競技志向ながらデッキ構築に関しては他の嗜好が強めなだけなので、反証にならないものとする。そもそも本当に一強になるようなデッキは対応力においても秀でていがちなので、一定のレベルのプレイヤー相手を想定するのであれば小手先のメタカードだけではどうにもならない事の方が多い)

歴史を紐解くと、賞金制度を導入し競技志向プレイヤーをターゲットにしたディメンション・ゼロと言うTCGが熱狂的なファンを抱えつつも販売展開終了し、一方マジック・ザ・ギャザリングはプロプレイヤーの存在を看板にしているにも関わらず前述のプレイヤーの分類を掲げて全てにリーチする商品展開を心掛けていると公言している。つまるところ、競技志向プレイヤーだけしかプレイしないTCGはセールスとして破綻すると言うのが歴史の上での結論なのだ。いくつかのTCGが一強環境を迎えたとしても、それは必ず一時的なものである。しばらくすれば、禁止カードの改定によって一強環境は一旦終結する。あるいはその前に、商品展開の方が。

と言っても、遊戯王ぐらいの規模のTCGともなればカジュアルなプレイヤーが自主規制によって強いカードの使用を避けて棲み分けをしだすので、大会内での一強環境の影響がそこまで売上に影響してこないと言う事もあるだろう。よく昔の遊戯王の環境について知ったかぶりをして「一強環境でクソゲーだったよねー」などと発言した人に対し「エアプだ!」「実際にプレイした奴はみんな楽しかったって言ってるぞ!」と憤る人もいるが、本当ならこれぐらいに競技志向プレイヤーとそうでない人の間の情報差があるのは喜ぶべき事だ。それぐらいに棲み分けできているからこそ、一強環境の弊害が全プレイヤーに波及してセールスを破綻させる最悪のシナリオを回避できているのである。いわゆるリンクショックがニュースになるぐらいにヤバかったのは、棲み分けを無視して全プレイヤーに波及するタイプの事件だったからなんだし。

ただ、TCGの種類によっては開発側も「絶対にそれを選ぶ事が正解な一強」は論外にしても「勝率は高いけど相手の努力次第では覆されるぐらいの準一強」は許容しているような節がある。そう言う準一強なデッキはちょうどいい塩梅で競技志向プレイヤーの購買意欲を煽り、新しくゲームに参戦する初心者が既存プレイヤーの持つ古いデッキと良い勝負をする上で適切なハンデになる。アニメ等のメディア展開をしているTCGでは主人公の使うデッキ、あるいは主人公自体がカードとして含まれているデッキがそう言う「強めのデッキ」として推される事が多々あり、たまに匙加減を間違えマジの一強になって主人公のエースカードが禁止カードに指定されたりする

本題

一強環境は運に左右されにくく実力が反映される、のか?

よく聞くのは、「一強環境は当たり運に左右されにくく、実力が反映されやすい」と言う話だ。TCGのデッキとデッキの間には、当然相性関係がある。競技志向のプレイヤーたちはこれを重々承知しており、常に環境で最も相性的に有利なデッキを使おうと執心している。一強環境だとこれは楽だ、一番強いデッキが分かっているのだからそれを改良して使えば良いからだ。こうなれば「デッキを改良する能力」と「実際のゲームでうまく立ち回る能力」を鍛えれば鍛えただけ強くなれる。しかし3つや4つでなく、10や20のデッキに勝機がある環境ではそうもいかない。その大会において最も人気のデッキAに勝てるようなデッキBを選んだ所、確かにデッキAの使用率は全デッキ中最大の20%で予想大的中だったもの、予選で遭遇したデッキXやデッキY、デッキZ(使用率1%以下)との相性がたまたま悪くて負けたみたいなケースが頻発する事になるからだ。

だが、このような事故の無い一強環境を指して「実力が反映される」と言うのは果たして本当に正しいのだろうか。確かに一回の大会にクローズアップして見れば努力が裏切られたかのような結果は低くない確率で生じてしまうが、参加する大会の数を10回、20回と増やしていけば確率は収束し、「良いデッキを選び続けられたか」が表出するようになってくる。また、一強のデッキとの対戦だけ理解すれば勝てる環境と違い、群雄割拠状態では覚えるべきデッキやカードの量が一気に何倍にも膨れ上がる為、知識や理解の広さの重要性がより大きくなる。一強環境は確かにある種の能力を見えやすくするが、同時に本来TCGプレイヤーに要求される能力のいくつかを無に帰しており、局所的な能力だけで競っているに過ぎない。

……とは言っても、現実的には一人の人間が参加できる大会の数には限りがあり、自分の実力を統計学的に測定できるレベルの頻度で参戦する事はほぼほぼ不可能だ。さらに群雄割拠状態での強さは環境が終結するまでプレイし続けた後で結論としてやっと見えてくるものであり、答え合わせまでの時間が長過ぎる。勝利だけを指標にするのであれば短期的な努力が見えやすい一強環境下と比べると群雄割拠下はあまりにもモチベーション維持が難しく、一部の天才を除けば個人の楽しい趣味の範疇を逸脱しかねない。近頃の研究によるとビデオゲームは子供の成長において良い影響をもたらすとされているが、それは論理的な思考に基づく努力の結果が(現実世界と違って)ちゃんと即座に反映されてくれるからだと言う。その理屈からするならば、競技志向プレイヤーにとって一強環境はビデオゲームと同じように愉快で楽しく、そうでない環境は現実社会と同じぐらいにファックなのかもしれない。

なお、「一強でない環境は当たり運に左右される」と言うのは少々語弊がある。例えたまたま不利なデッキと遭遇してもプレイヤーの実力により2回に1回、3回に1回ぐらい勝てる程度まで勝率を向上させられるかも知れず、それが出来るなら十分に当たり運をカバーする余地があると言える(限度はあるけど)。それにもし「他のデッキに対し特別有利なわけではないけど、丁寧にプレイすれば特定の変なデッキに相性で負ける事も少ない」みたいな性能のデッキがあるならば、それを選べば良いだけだ。ただしこの理屈が成立するのはゲームバランスが十分に良く、かつゲームの技術介入度が高く、そして環境中のデッキが本当の意味で豊富な場合に限られる。もしゲームそのものが単純で、技術の有無に関わらずデッキ相性でゲームの8割が決まってしまい、どのデッキを選んでも名前が違うだけでやってる事が変わらないようなTCGであれば、こんな事は言っていられないだろう。そのような「マジでデッキ相性だけでゲームが決まりまくる状態」は「一強環境だと楽しい」のではなく単に「ゲームバランスが良くない」だけなのではないかと言うのが個人的な印象である。

一強だと、その一強の中でメタが回る

さっきの話がこの記事の本題みたいな所があるが、他にも一強環境特有の面白さはあるので引き続き書いていこう。

一強環境の面白いところと言えば、他のデッキがない分ミラーマッチに合わせて単一デッキのマイナーチェンジが無尽蔵に行われ、デッキの完成度が無限に高まっていく所も挙げられるだろう。環境に応じて最適化を繰り返されたデッキと言うのは一種の美を帯びるもので(個人の感想)、一強環境において生じるそれは一際眩しい。もちろん単一のデッキの美しさと引き換えにそれ以外のタイプのデッキ全部が死んでしまうのは手放しに褒められる事ではないが。

進化するのはデッキだけでなく、プレイヤーの方も単一の相手を倒す為にプレイングを先鋭化させていく。互いに近似したデッキを使う中では確かに実力が勝敗に与える影響は大きく(ただし互いに近似したデッキを使うからこそ「先行後攻だけで決まるクソゲー」になる場合も往々にしてある)、相手を出し抜く為の様々なテクニックが生まれ、今ならnoteで値札を付けられていく。もちろん群雄割拠状態でも頭がいいプレイヤーはあらゆる相手に対して同じ事をやっているが、複数のデッキに対して満遍なく行われるそれよりも一強環境で単一のデッキに対して向けられる研究のほうが当然深みが増す。「だから将棋でもやってればいいだろ」と言いたくなるかも知れないが、4000年以上昔のゲームにルーツを持つ将棋と比べれば赤ん坊とすら言えない受精卵状態の「○○一強環境」は完全に未知でこれからどう成長していくのか予測が難しい所があり、また「禁止カード改定」や「新カード発表」のようなタイムリミットの中で試行錯誤が行われるので、歴史的な対戦ゲームとはまた違った特有の魅力や緊張感がある。

一強環境の方が金が掛からない

複数のデッキが強い状態で勝ち馬に乗り続けるにはその時最も有利なデッキを使う必要があり、また使わないデッキについても人並み以上に理解していなければならない。その為には当然自分の使うデッキに必要なカードを買わなければならないし、大会で使うつもりのないデッキも実際に使ってみる必要がある。後者は知人友人とプロキシで対戦する事である程度どうにかなるかも知れないが、前者はそうもいかないし、後者についても「プロキシで回してみたら思ったより感触良かったし、一応持っておきたい」みたいな事になりがちだろう。と言う訳でそう言うデッキを全部買ったらどうなるか?安いTCGでも数万、ものによっては6桁行く(レガシーとかヴィンテージなら7桁8桁)。ゴルフクラブと比べてどれだけ長持ちするかもわからない環境寿命数ヶ月のデッキにそこまで金をかけ続けるのは、景気だだ下がりの日本において誰しも容易にできる事ではないだろう。どうせTCGの他に流行りのガチャゲーとかもやってるんだろうし。

その点一強環境は楽だ、最初にデッキのパーツをまるごと買い、想定される入れ替え用パーツも用意しておけば、追加出費はたまに古いよくわからん対策カードが急に流行って高騰した時を除けばほぼ発生しないし、そう言うカードを後から買うにしても5桁の出費が発生する事はそうそうない。最寄りのカード屋でショバ代がわりに新パックをちょろっと買う以上の追加出費は(あくまで大会で勝つ目的の中では)発生せず、のびのびと遊び続けられるだろう。また、一強環境ではそこに入り損ねたあらゆるカードの値段が低い状態で落ち着きやすい。大会で使う事を目的にしないサブのデッキを作ろうとした時、これは確かに助かるポイントになる(大会を運営してくれる中古カードショップの売上を心配しないのであれば)

まあそんな事関係なく新しいパックの箱買いとか既に持ってるカードの光ってる版の買い揃えとかしてしまうのがTCGプレイヤーの宿命ではあるが。

たまにはいいよね

そんなこんなで一強環境の良さを挙げては見たが、やはりすべてのプレイヤーに受け入れられるものではないし、一強のゲームを商売として成り立たせられるわけではない。あくまで「あるTCGの歴史の中の、一時の期間に生じるもの」だからこそ、商売の面でもプレイヤーの心象の面でも受け入れられ、時に黒歴史ではなくまるで伝説であるかのように語られるのだろう。多様なプレイヤーに受け入れられる事を至上命題にするTCGにおいて、多様性の対岸に位置する火と水の関係の一強環境だが、時にそれすらも内包するのが本当の多様性なのかも知れない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?