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つづき--人間の価値は何で決まるのか

昨日、茂木健一郎さんのボイシーを引用したnoteを書いた。読んでない方はぜひこちらから読んで見てほしい。



アップしたあと、なんだかモヤモヤが残っていた。もう少し言葉にしてみる。

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例えば憧れの人がいたとする。やることなす事すべて美しく思えて、その人のようになりたいと思える。それはその憧れの対象である人物に価値があるという事なのだろうか?

あなたにとって、その人は価値ある人物であるとはいえるかも。その人の行動を素敵だ と思う感情は、あなたが何を美しいと思えるのか、何に価値を見出すのか、そういう指標を明確にする材料になる。


逆に、こんな人にはなりたくない、と思うことがあったなら、それは試されてるんだろう。その人のよくない行動を見てその人自身の人格まで否定してしまうのか、どういう背景があったかまで想像できるのか。

‘他人の目に映る行動’と ‘その人自身’ は区別して考えるべき。それは、その人の思考と行動すべてを持って判断できるわけではないから。

これが、他者に向ける目線。


自己に対しては?

行動と思考。これは本人が多くを把握できる。時には他者から気づかされることもあるかもしれないけれど、ある程度指針を持って行動に移しているはずで。自分のことは騙しようがない。


…きっと、自分に価値がある、と思える人のほうが少数派なのではと思ってしまった。すべてがわかるから、愚かだと、怠け者だと、断定できてしまう。ほんとに何もできないやつだなって、分かってしまう。



けれど。

自分のすべてがわかっている人なんて、いない。大なり小なり、自分を客観視するときフィルターを掛けてる。自分のことが見えてない、ということが見えてない。

自分を価値づけられるのは自分だけ。そして、自分のことを本当の意味でわかってあげられるのも自分しかいない。体調の変化や気持ちの浮き沈み、得手不得手、情熱の度合い、成功体験、トラウマ、バックボーン、環境や他者など対外的な要因の影響、そんな繊細だけれど些細ではないこと、周囲には気付けない。だから、自分だけはわかってあげてほしい。自分に対して掛けているそのフィルターを外して、ちゃんと見てあげてほしい。

人間の一面のみで価値を判断するなんて、そんなひどい話無いじゃない。自分を価値を決めるのは、ちゃんと自分の全部を見れるようになってからなんじゃない。






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