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病歴23:換毛期の猫

換毛期の猫は、撫でれば撫でるほど、毛が抜けて、まとまり、ふわふわと風に舞う。
ブラシや櫛をすると、無限に抜け続けるのではないかというぐらい、毛が抜ける。
もしかしたら、抜け毛を集めると、もう一匹、猫ができるんじゃないかというぐらい、抜けるものだ。
特に、冬毛から夏毛に入れ替わる時がすごい。

前回の抗がん剤治療の時は、櫛を通せば、櫛に絡みつくように髪が何本も抜けるのを見て、お岩さんを思い出した。
京極夏彦さんの『嗤う伊右衛門』は、傑作中の傑作だと思う。
風呂上り、抜けた髪に家族が胸を痛めるので、床にはいつくばって粘着クリーナーをコロコロし、それでも取れない髪を一本一本拾っていた。
それでも私が見逃していたものを、老母がこっそりと掃除していたことを、後で知った。
一本一本拾うなら、ある程度の長さがあるほうが拾いやすいことが、前回の教訓だ。

頭皮がちくちくとするような嫌な痛みを感じるようになったのは、退院してすぐだったように思う。
鍼灸の治療で、頭皮にも鍼を刺すことがあるが、ちょっと外した感じに近いだろうか。
我ながら、伝わりにくい例えしか思い浮かばないのだが、何とも言えない嫌な感じで、頭皮から内側に向かって少しの深さがある、つーんと刺さるような、毛髪を逆なでされたり引っ張られたりするような痛みなのだ。
1クール目の点滴から2週間で毛髪が抜け始めるので、出勤時にケア帽子を着用するのはG.W.明けでよいかと思っていたが、その痛みへの対策として、早々に帽子をつけることにした。
帽子をかぶっていると、なんとなく痛みがまし。あったかいせいなのか、髪の毛が押さえられているからなのか、帽子の感触で皮膚感覚がまぎれるからなのか、仕組みはよくわからないけれど。

抗がん剤治療から二週間が過ぎた頃、後頭部のあたりに手をやった時に、髪のボリュームが減ってきたと感じた。
朝、顔を洗って、化粧水などを付けた時に、手にざらざらとしたものがあたるようになった。
ちょうど、タオルを代えたばかりだったから、毛羽立ちやすくて繊維が肌について丸まったのだろうか、などと、考えていた。
後から思えば、顔の産毛やまつ毛や眉毛が、徐々に抜けて、化粧水を広げる手に丸められて固まっていたのだろう。
抜け毛は全身に起きることなので、腕も脛もどこもかしこも、つるつるになっていく。

とはいえ、一番、抜け毛を実感するのは、髪の毛だ。
この三日間がピークだと思う。一気に抜け始めた。
この状態になると、ケア帽子を脱ぐと、帽子の中に髪が数十本は落ちている。
おくれ毛をかきあげようとして、手で触れるだけで抜ける。
走っても抜ける。歩いても抜ける。なにか動くと、はらりと抜ける。
帽子をしていないと、食事の中に髪が落ちる。
朝夕に髪をとくが、もちろん抜ける。それこそ、換毛期の猫をブラシしているような気分になる。ブラシでも櫛でも、ごっそりと抜ける。
抜けるから、ごみ箱を前にして髪をとくようにしているのだけど、ぱらりぱらりと音が立つ。

洗髪をするときが大変だ。
ちくちくする頭皮を刺激しないようにそうっとシャンプーを泡立てる。
その指に、束になって髪が絡みつく。
シャワーで流せば、泡を流しているのか、髪を流しているのか、わからないぐらいだ。
肩や背中にたまり、腕や太ももに張り付く。
シャンプーやリンスを洗い流すより、肌に張り付いた髪を洗い流すのに、時間がかかる。
浴室の床に落ちたものを洗い流し、排水溝に真っ黒に厚みをもって溜まったものを拾って捨てる。
ひじきやもずくを連想する。濡れた真っ黒の糸状のものの塊。
小野不由美さんの『鬼談百景』に、風呂場の排水溝に溜まった髪を食べるあやかしが出てきたけれども、きっと満足していただけるのではないかと思っったりした。溜めたままにはしないけどね。

髪を拭いたタオルにも髪はつく。それを払って、ごみ箱に落としたつもりだが、タオルが乾いてくると、一本二本と湧くように落ちてくる。
ドライヤーを使えば、風に吹かれただけで、髪が抜けていく。背中に沿って髪がふわふわと飛んでいくのを感じる。あたり一面に散らばっていく。
今日は特にひどくて、濡れた髪をとかしながらドライヤーをあてようとすると、抜けた髪がもつれてブラシに絡まってしまい、往生した。
結局、その大きな塊となった髪の束を、ときながら抜いてしまうしかなかったが。
ブラシを櫛にかえても規模は小さいが同様で、抗がん剤治療が始まる前に髪を切りに行けなかったことを悔やんだ。
2年前の抗がん剤治療の時は、今よりも髪が短かったから、こんなことにはならなかったのに。

そうこうすると、風呂上がりに着替えた服も抜け毛だらけになる。
払って摘まんで取り除いても、5分、10分もすれば、肩のあたりに抜け毛がついている。
湯上りに化粧水を使えば、そこにまた髪が張り付いてきて、張り付いたものを払おうとすると抜け毛になる。
脱衣場の床に抜けて散らばった髪を、手で寄せ集めて、ごみ箱に捨てる。
次に、粘着テープでコロコロしてみる。
それでも取れなかったものを、一本ずつ指でつまんで拾い集める。
その掃除まで含めると、いつも以上に入浴に時間がかかってしまう。
自分が見逃していたものを、やっぱり、母が後からこっそり掃除をしていた。
私は母が見たらショックだろうと思ってやっていたが、母もまた私がショックを受けるのではないかと思って、私以上に念入りに掃除をしていた。

明日、やっと美容室に行くことができる。
美容師さんはどう反応するかわからないが、剃髪を希望しようと考えている。
この抜け毛を拾うのがきりがなくて、イライラしちゃうのだ。
きりがなくて、イライラする。うっとうしいし、めんどいし。
換毛期の猫がイライラするのも、共感しちゃうぐらい、イライラしてしまう。
そのイライラが無くなると思うと、むしろ、楽しみだ。確実に、つるつるにしてほしい。
それに、前回、まばらに残った髪が、抗がん剤治療が終了して髪が伸び始めた時に、もつれたり引っ張られたりして、痛いし、かっこ悪いし、苦労したのだ。
その予防だと思うと、やっぱり、剃髪が正解である。

だってさ、G.I.ジェーンって、私の好きな映画だったんだ。
デミ・ムーアの映画のなかで一番好きだった。
あんなに体を鍛え上げていないけれど。
自分は望んで髪を剃ろうとしているし、治療に伴う一時的なものだから、まだ、気楽な方だよね。
それでも、私のパートナーが、これから夏だからちょうどいいじゃないか、と笑ってくれる人でよかったと思った。気になるなら自分もそろうか?と言うような人でよかったと思った。

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