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【個性】統合失調症との関わり方を芸人・松本ハウスから学ぶ。本人と周囲の人間はどう対処すべきか:『統合失調症がやってきた』『相方は、統合失調症』

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芸人・ハウス加賀谷が統合失調症に陥り、閉鎖病棟に入院、芸人として復活するまで

見出しの通りですが、本書は、お笑いコンビ「松本ハウス」のハウス加賀谷が子どもの頃から変調に苦しみ、統合失調症と診断されて芸人を休業、閉鎖病棟に入院した後お笑い芸人として復活を果たし、その後どのように芸人を続けているのかを綴った作品です。この記事では、芸人として復活を果たすまでを描く『統合失調症がやってきた』と、再結成後のやり取りや苦労などを描く『相方は、統合失調症』を同時に紹介しようと思います。

本書の解説で、星野概念という精神科医が、統合失調症は100人に1人は罹患すると書いています。学校の1クラスが30人だとして、3クラスに1人は統合失調症と診断され得る人がいる、ということでしょう。決して「特別な病気」ではないと理解しておく必要があります。

「親の期待」が統合失調症引き起こす要因の1つだった

それだけが統合失調症の原因だなどと言うつもりはありませんが、ハウス加賀谷は「親からの期待に応えなければならない」という感覚をかなり強く持っていたと話しています。

でもぼくは、親のプレッシャーをすぐさま感じ取り、良い子にしようといつもしていた

『統合失調症がやってきた』(松本ハウス/幻冬舎)

良い子でいなければいけない、親を喜ばせなければいけない、そう思い返事をしていた

『統合失調症がやってきた』(松本ハウス/幻冬舎)

これは分かるなぁ、という感じがしました。私も正直、子ども時代はまったく同じように考えていたことを覚えています。

なので皆さんには是非、「子どもが優等生であればあるほど危険かもしれない」と認識してほしいのです。同じようなことは、『ヒキコモリ漂流記』(山田ルイ53世/KADOKAWA)の記事でも書いたことがあります。

ハウス加賀谷もきっと同じだったはずだ、という考えで自身の話をしますが、「親に良い子だと思われること」ということが、子どもの頃の私には何よりも重要なことでした。何故そう思っていたのかは今では思い出せませんし、その当時聞かれたとしても答えられなかったかもしれません。とにかく、自分の言動は「良い子に見えるかどうか」で判断していたのです。

しかしやはりそれは大変なことでした。私は両親のことがあまり好きではなかったので、「好きだと思えない相手に対して良い子であるように振る舞う」というのは苦労したし、そもそもは自分の選択でそうしているだけなので、誰を恨むわけにもいきません。

ハウス加賀谷もこんな風に言っています。

僕は小さい頃から、自分の正直な気持ちを口にしたことがない子供だった

『統合失調症がやってきた』(松本ハウス/幻冬舎)

「こういう言い方をしたら良い子ではなくなってしまう」という発言を自分で抑えてしまうので、必然的に「思ったことを言わない子ども」になってしまうのです。私も同じだったなと思います。

ハウス加賀谷や私のような人間は、「大人しくて手がかからない良い子」という風に親や大人から見られるし、それは「この子は放っておいても問題ない」という判断に繋がるでしょう。

だからこそ、そういう「良い子」の方が危ない、と私は思っています。

手がかかる子どもの方が視界に入れておこうと思うだろうし、ちょっと変化に気づける可能性も高くなるでしょう。一方で、手のかからない子どもは放っておいても大丈夫だと思われるし、その間に状況が悪化してもその変化になかなか気づけない、ということになってしまうのです。

統合失調症になるかどうかは他にも様々な要因があるでしょうから一概には言えませんが、「良い子であること」が何らかの形で変調に繋がってしまうことはあり得ると思っています。私は子どもを育てているわけではないので自分のこの経験を活かす場はありませんが、皆さんには是非、「良い子だからといって安心してはいけない」という感覚を持ってもらいたいです。

「相談」について考える

本書を読んで改めて、「相談」について考えさせられました。ハウス加賀谷の相方である松本キックの振る舞いからそんな思考に至ったのですが、その松本キックの振る舞いについてはちょっと後で触れるとして、まずは自分の話をしましょう。

私は、自分で言うのもなんですが、相談相手として向いていると思っていて、頻繁にではありませんが、「カウンセラーみたいですね」「今すぐにでもカウンセラーになれますよ」みたいに言ってもらえることもあります。

そんな私が普段から意識しているのは、「いつでも相談して」みたいなことを言わないようにすることです。

私は以前、ちょっとだけ引きこもっていたことがあります。その時期は一日中頭がグルグルしており、正直かなり辛かったのですが、そういう自分のメンタルがしんどい時に「誰かに話を聞いてもらうこと」はとてもハードルが高く感じられてしまうのです。

というのも、誰かに話を聞いてもらうことを、私は「相手に負担を掛けてしまう」と考えるので、それゆえ相談することを躊躇してしまうことになります。そしてそれは、「いつでも相談して」みたいな言葉ではなかなか払拭できないと思っているわけです。

私が意識していることは、「どんな話も面白がって聞く」ことです。話の内容がどれほど辛いものであっても、相手が自発的に話そうとしている時点で「他人に話せないほど苦しい状態」は既に脱している、と私は考えます。だから聞く側が過剰に構えてはいけないと思うのです。

それよりは、「その話面白いね」という反応で聞く方が、「こういう話をしても負担ではないのだ」と伝わるからいいのではないか、と考えています。なので普段から、辛い話も含めて誰のどんな話も「面白がって聞いていることが相手に伝わる」ようにしているつもりだし、そういう意識が、「この人にだったらもっとハードな話をしてみてもいいかもしれない」という気分に繋がってくれたらいいな、といつも思っているのです。

さてここまでは、「相談を受けるまで」の話ですが、次は「相談を受けている時」のことに触れましょう。

結論を先に言えば、私は「相談」という行為を、「相手の頭の中を整理すること」と捉えています。

もちろん「相談」には、「あの人の意見だから聞きたい」という動機からのものもあるでしょう。美輪明宏やマツコ・デラックスの意見を知りたい、という需要は当然あるし、そういう「その人の個人的な意見を聞きたい」と思われる存在の人であるなら、「相手の頭の中を整理する」なんてことを考えずに自分が思ったことを言うべきだと思います。

ただ、自分がそういう存在ではないのなら、「相談」してくれた相手に「自分の意見を伝えること」は、大体の場合求められていないと考えるべきでしょう。

これは、趣味で置き換えてみたら分かりやすいだろうと思います。例えば「面白い本を教えてください」と言われた時、自分が面白いと思う本を勧めても、それが相手に響くとは限りません。作品であれ料理であれ何であれ、それを好きだと思う人もいるし、普通とか嫌いとか感じる人もいるからです。結局、「面白い本を教えてください」という質問は、「私が面白いと感じるだろう本を教えてください」という意味だと理解すべきだということになります。

それは「相談」でも同じです。人それぞれ価値観が違うのだから、私のアドバイスが相手に刺さるとは限りません。

だからこそ、「相手の頭の中を整理すること」が大事になるわけです。

私は「相談者」を「方向性や答えは自分なりになんとなく決まっているが、それを頭の中から上手く取り出せない人」と捉えます。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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