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【超越】天才とは「分かりやすい才能」ではない。前進するのに躊躇する暗闇で直進できる勇気のことだ:『蜜蜂と遠雷』(恩田陸著、石川慶監督)

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「天才」というのは、どこまでいっても清々しいぐらいに「天才」なのだ

「天才」が見ている世界を体感してみたい、とずっと願ってきました。今でもそう思っています。私たちのような凡人とはまったく異なる世界で生きているだろう彼らの日常を、一瞬でもいいから知ってみたい。そのためなら、天才であることのデメリットをすべて引き受けてもいい、と思うことさえあります。

悔しいけど、俺にもわからないよ。あっち側の世界は

「蜜蜂と遠雷」(監督:石川慶、主演:松岡茉優、松坂桃李)

でも、「凄い人」と「天才」の差があまりにも大きなこと、そしてどれだけ「凄い人」であっても「天才」の世界は理解できないのだということを、この作品で理解しました。

それでもやっぱり、「天才」の世界に足を踏み入れてみたいと考えてしまいます。

「既存の枠組み」を飛び越える者こそが「天才」

生きていると本当に、「凄い人」って世の中にはたくさんいるものだなぁ、と感じさせられます。どうやってそんなことやってるんだろう、なんでそんなこと知ってるんだろう、みたいな圧倒的な能力・知性を感じさせる人は、なんだかんだごろごろいるものです。そういう人の存在を知る度に、自分のちっぽけさを感じてしまうわけですが、まあそれは仕方ありません。

さて、そういう「凄い人」の存在を知る度、「うわぁ、天才!」というような表現をついしてしまいます。同じだという方は結構いるのではないでしょうか。でも一方で私の感触としては、そんなにごろごろ「天才」がいたら困ってしまいます。「天才」というのはもっと、ほとんど現れない稀少な存在だと私は考えているからです。

だとすれば、「凄い人」と「天才」を分けるものはなんでしょうか?

才能に関して、私がよく考えることがあります。それは、「ランキングの1位は必ず存在する」という事実についてです。

何かの「ランキング」を決めるとすれば、そこには必ず「1位」が存在します。当たり前ですが、それが「ランキング」というものです。

それが何であれ、「ランキング1位」は凄いことだと扱われます。もちろん凄いことではあるんですが、しかし必ず誰かは「1位」に選ばれるという意味ではさほどの重要さはないとも言えるでしょう。例えばですが、メチャクチャ足の遅い人100人を走らせて「1位」を決めることもできます。しかしその「1位」に何か意味があるでしょうか?

このようにして私は、「ランキング1位だからと言って天才なわけではない」と考えます。そしてこの考えを押し広げることで、「既存の枠組みの範囲内にいる人は天才ではない」と言っていいのではないか、と考えています。

つまり、「既存の枠組みを飛び越える者こそ天才」というわけです。

「枠組み」というのは、「理解のための補助」だと言えます。「テレビ」という枠組みがあるから「ドッキリ」が理解できるし、「一般相対性理論」という枠組みがあるから「重力」が理解できるわけです。「甲子園出場」や「東大合格」などの「枠組み」が存在することで、その内側では評価軸が定まり、だからこそそれに沿った努力ができることになります。「ランキング」が成立するのも「枠組みの内側にいる」からです。

しかし一方で、「枠組み」が存在することによって、その外側に出るのがとても危険なことだと感じられるでしょう。そこは、「理解の補助が存在しない領域」なわけですから。だから私たちはどうしても、「枠組み」の外側に出ないように意識しがちです。

しかし中にはその「枠組み」の境界線をあっさりと越えて、まったく別のステージに行き着く人もいます。

最近では、大谷翔平の例を挙げるのが一番分かりやすいでしょう。大谷翔平は、野球界の「枠組み」を打ち破り、投手と打者という二刀流を実現させ、そのどちらでも驚異的な成績を残しました。投手あるいは打者のどちらか一方でとんでもない成績を出す人はそれなりにいるでしょうが、やはりそれは「凄い人」に留まってしまう印象があります。大谷翔平のように、既存の「枠組み」を当然のように突破していく者だけが「天才」と呼ばれるに相応しいのではないかと私は思うのです。

『蜜蜂と遠雷』にも、そんな「枠組み」をあっさり越えてしまう「天才」が登場します。

野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ

「蜜蜂と遠雷」(監督:石川慶、主演:松岡茉優、松坂桃李)

彼は、「ピアノを弾く」という行為につきまとうありとあらゆるものをさらりと振り払って、「ただ弾きたいから弾くんだ」というスタンスを持ち続けます。子どもの頃にはきっと、誰もがそう思いながらピアノを弾いていたでしょうが、コンクールに出場するようなレベルともなればそうもいきません。しかしそういう「枠組み」を当たり前のように越えていくのです。

この作品では、そういう「枠組みを越える」という意味での「天才」を描き出し、その圧倒的な存在に直面する人々が様々な問いに向き合うことになります。

「天才」をどう評価するのか

その「問いに直面する人」の中には、コンクールの審査員も含まれます。つまり、「枠組みを飛び越えた『天才』をいかに評価すべきか」という、まさに「審査員が審査される状況」が生み出されているわけです。

よく言われることだが、審査員は審査するほうでありながら、審査されている。審査することによって、その人の音楽性や音楽に対する姿勢を露呈してしまうのだ

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

そして、審査員たちも薄々気付いている。
ホフマンの罠の狡猾さと恐ろしさに。
風間塵を本選に残せるか否かが、自分の音楽家としての立ち位置を示すことになるのだということを。

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

風間塵というのがその「天才」の名前ですが、彼はホフマンという大御所の隠し玉としてコンクールに出場します。そしてホフマンは、「お前ら審査員に、風間塵を評価できるのか?」という問いを投げかけている、というわけなのです。

では、ピアノコンクールにおける「枠組み」とは一体なんでしょうか?

近年、演奏家は作曲者の思いをいかに正確に伝えるかということが至上命題になった感があり、いかに譜面を読みこみ作曲当時の時代や個人的背景をイメージするか、ということに重きが置かれるようになっている。演奏家の自由な解釈、自由な演奏はあまり歓迎されない風潮があるのだ

「蜜蜂と遠雷」(恩田陸/幻冬舎)

それが「審査」である以上、何らかの「枠組み」を必要とするのは当然です。しかし一方で、ピアノコンクールに限る話ではありませんが、「『枠組み』から外れているからダメだ」というあまりにも短絡的な評価・批評が多いように、私個人としても感じています。

本来的には、「枠組み」の内側にあるか否かは、指標の1つに過ぎないはずです。野球の場合は「ストライクゾーン」に入らないものはすべて「ボール」と判定されますが、普通は「ストライクゾーン」に入らなかったとしても、ただそれだけで「ダメなもの」という扱いをすべきではないでしょう。

もちろん、必要があって「枠組み」を設けているなら別です。例えば、「ミステリー小説」を公募する賞に「純文学作品」を送っても、正しく評価されないでしょう。それは良し悪しの問題ではなく、求められているものと違うからです。「私たちはこういうものを求めています」という「枠組み」から外れたものが、正しく評価されないのは当然と言えます。

しかし、そういう大前提をクリアしているのであれば、「枠組み」の存在は評価する際の指標の1つに過ぎないはずです。そこに固執するのは、批評する側の怠慢だと私は感じます。

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