心のたなびき、を
昨日、総合病院の通路をわたる時に方向音痴なわたしは、相も変わらずグルグル院内を旋回することに。
ふと立ち止まると、「精神科」から出てきた患者さん。
様子がおかしい。
バックからティッシューを取り、はじめは鼻。次は目元。密やかに下を向き、ほほを赤らめ、押し殺している手先の震えが、心の仕草にみえ、やけに印象に残ってしまいます。静かに静かに息を止めても流れる涙。
声かけて、手を差し伸べれたら本来は良い。
かといって、顔も知らない人におせっかいに声をかけるのも違和感がある。
タイミング良く話しかけれたら良いけど、なかなかそうもいかない。
しかし、無関心ほどひどいものはない。
このようなとき、どうしたらいいかわからないけど、思えば、心の病を恥じて自分の殻に閉じこもる人が多いかもしれない。そういった人が毅然と生きれる環境があればいいのか、ホッと出来る居場所があればいいのか。
何か手立てがあればいいのに。
今の私に気づかせてくれるものがありました。
その方がどのような病名を患っているかはわかりませんが、たとえば流行りの病名「うつ病」は、普段何気なく冗談話をする人がいますが、もし当人がそうだったりして、恥じることもないのに、恥じてしまったり、傷つくかもしれない。あるいは何かしらの心の負担は発生します。
語弊があったらすみません。
私の至らない考えですが、差別的な病名にも思える広告媒体も目にします。
それは、言葉の使い方や表現の仕方によります。
デザインの力で、このようなイメージ転換にも使えたら、幸いです。
他にも、この世界を今どんな風に感受しているか、どんな人にどんな不幸が襲っているかとを考えることも、
ここで想像力と論理的思考は、感性や知性かといった対立を成すものではなく、ともに、不在のプロセスの感受性としてあるのだと思います。
そういう不在の感受性の根っこが、生きる上でもっとも基本的な出来事が、実は見えない仕組みを育み、感受性になり、多分、日常の経験や食卓を囲んだ環境の経験から育まれてきたのかもしれません。
現実が想像力を育み、現実は想像力の働きかけによって、より現実的なものになる。
想像力というと、よく論理的な思考と対比されます。感性VS理性。でもどちらでも、いまここにはないもの、不在のものへと向かう心の動きとしては等しい。想像力=ファンタジー(空想や夢想)だけではなく、目の前にあるものをきかっけとして、現れていない出来事や過程を思い描くこと、あるいはそれを論理的に整合的に問い詰めていくこと、そういう「心のたなびき」がここでいう、想像の働きであり、その意味では、科学や政治、あるいは芸術(他人への)思いやりにも、いきいきとした想像力がどうしても必要不可欠です。
しかし、何事も理解し合えるはずだ、と思われるのは困った事態になりうる可能性があります。理解したいという姿勢はもちろん誠実で思いやりがあります。しかし、「理解し合えるはずだ」ということが前提に立つと、少しでも理解出来ないことが合った時に、事態は上手くいかなくなることがあると最近気づきました。
大切なのは、わからないものをわからないものとして知ること。
もちろん、投げやりではなく、知と不知の境界を知り、その不確定なことに囲まれながら、舵取りをおこない、賢明に知恵になることにつとめたりする、かといって力まずに、気楽につとめることで、過剰な緊張感で疲れにくい環境にもなります。
そこから、訊き、知り、感受性をいかして「足りない思想を構築する」心のたなびきで、なにかしらの役に立つアイデアがうまれ、デザインにもなり、ソフト面のインフラ整備ができると、密やかに下を向き、ほほを赤らめ、押し殺している手先の震えによる心の仕草にみえた、あの女性にも役に立つヒントがうまれるのではないか?と思い、無知な私ですが、、日記にて綴りました。
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