花から花へ
さまざまなひととの関わりや経験のなかで、わたしなりの“花”を手渡すことが、ひいてはわたし自身も“花”を受けとることである、ということに気づきました。
わたしが「心からそうしたい」と感じるものがわたしの“花”――それを「心からそうしたい」と感じる相手に、わたしが「そうしたい」と感じることをすることが“花を手渡す”ということ。そしてそのように“手渡す”ことで同時にわたし自身も“花を受けとる”のだと。
わたしが「心からそうしたい」と思ったそれを“手渡す”ことは、“手渡す”ことで“受けとって”もいる。
わたしが「心からそうしたい」と思っていないのに、誰かに求められているから、誰かがそれを望んでいるようだから、という理由でそれをしようとすると、それはただわたしから離れる一方となる。わたしの“花”は毟りとられたり、奪われたりしてしまう。
ほかでもないわたし自身に。
自分の肉体の反応は正直だから、「そうしたくない。“けれども”、しなければならない」と自分に命じているとき、からだが重くなったり、どうしてもやる気にならなかったりする。それにしたがってあげることが大切で、それはこれまでも誰にとっても大切なことだったけれど、これからはますますそうなのだと。
わたしが“手渡したもの”が“花”だとわかってくれるひとに、だから自分のなかにある“扉”となんらかの“鍵”みたいなものがつながっているように感じるひとに、わたしが「心からそうしたい」と感じたときにわたしの“花”を。
それが“花”だとわかってくれるひとに。
わたしが“花”を手渡してもそれを“花”だとわかってくれないひとにそれを捧げようとしつづければ、自分が疲弊してしまう。そういうことは自身のためにも、ひいては相手のためにもならなくて、それが「花だとわからない」というところにきっと相手の大切な学びがあり、相手が自分で気づかなければいけないことでもあって、それを“奪って”はいけない。それはおなじように他者の“花”の蕾を散らすことであるのだと。
わたしが心から幸せになってほしいと感じるひとで、なおつ“花”を“花”だとわかってくれるひと。というよりも“花”を“花”だとわかってくれるひとは幸せになって当然だと思わずにいられないし、それを願わずにもいられない。
だから“花”を“花”だとわかってくれるひとにそっと花びらを贈りたい。
“わたし”という人間を土に根ざしてしっかりと立つ樹とするならば、そこから動かなくてもきっと、自分からひらいた花は柔らかな風とともに放たれて、その“花びら”はそのひとたちのもとに届くから。
わたしの“花”は、わたしの時間であり愛であり豊かさであり力であり、だからわたしの“いのち”であるもの。それはすべてわたしという樹のなかに巡るエネルギーで、だから、そこから放たれた“花びら”を。
花びらはいつも“かたちのない贈り物”で、わたしがそれを“手渡したい”と思ったとき、それを相手が受けとり味わい抱きしめて、そして微笑みかけてくれることで、わたしもまた同時に“受けとって”いる。だからわたしも誰かの“花”を受けとり味わい抱きしめて、そして微笑みを返すことで巡る螺旋があるのだと。
“かたちのない贈り物”のなかにある“花びら”の大切さを知るひとであること。
“手渡す”ときにも“享受”するときにも。
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