名作マンガの思い出①火の鳥

 虫プロ商事が創刊した月刊誌「COM」で手塚治虫の長編「火の鳥」の連載が始まったのは1966年12月。小学6年生だった私は運良く、リアルタイムでこの大傑作を読めることになった。父親は中学進学を控えた息子がマンガ雑誌を読むことを由としなかったが、孫には甘い祖母がこっそり買ってくれたのだ。
 第1部「黎明編」の第1回を読んで、まず驚いたのはその疾走感だった。火山の大爆発、火の鳥を追うクマソの狩人・ウラジ、病に伏せるウラジの妻・ヒクナと見守る弟のナギ。ウラジの死、謎の男・グズリの登場と彼の医術によるヒクナの蘇生。グズリとヒクナの婚礼、婚礼の夜に現れる大船団……。これが32ページあまりで展開されるのだ。しかも、エピソードやセリフを無理やり詰め込んだところはひとつもない。それどころか、ギャグやコマの遊びまで入っている。1回目にして夢中にさせられたのだった。
 今、単行本で「黎明編」を読むと実に数多くのキャラクターが登場することにも驚く。しかも、誰もが個性がある生きた存在として描かれている。そして物語が濃い、裏切りあり、友情あり、恋あり、サスペンスあり、スペクタクルありのドラマが、まるでジェットコースターのように突っ走っていく。
 この疾走感やキャラクターの多彩さ、物語の濃さは「火の鳥」全編に共通する魅力だ。当時の少年マンガには珍しかった恋愛要素も思春期だった私の心を掴んだ。
 そして、第2部「未来編」第1回で、私は完全にぶっ飛んだ。舞台はいきなり跳んで未来。しかも、人類は黄昏を迎えている。
「まさか、手塚先生は人類の最後を描こうとしているんじゃないだろうな」と読み始めたら、まさにその通り。しかも、ハルマゲドンは連載の中盤に訪れ、連載後半では人類が滅びたあとの地球に新たな知的生命が誕生するまでの数億年が描かれるのだ。
 そして、ラストシーンはそのまま第1部「黎明編」へと重なる。「火の鳥」は過去と未来から現在に向かってそれぞれ独立したエピソードが描かれ、完結したときには、一本の線ではなく巨大な輪を形成する仕組みなのだ。巨大な輪は、生まれては死んでいく無数の生命が織り成すドラマが連鎖する手塚版「輪廻」の世界だ。
 自分が読んでいるマンガがとてつもなく大きなものだと知って、背筋がゾクゾクとしたことを今でもはっきり覚えている。しかも、実は第2部の最終回と、日本武尊の熊襲征伐に材をとった第3部「ヤマト編」の第1回は同じ号に掲載されていて、こちらはは赤塚不二夫を意識したようなギャグタッチ。この落差というか、ファンを裏切るテクニックにも感心したのだった。
 しかも、各エピソードの主要な登場人物は別のエピソードの誰かにつながる仕掛けが施されている。
 第5部「復活編」の主人公・レオナと彼の恋人でロボットのチヒロがひとつになって誕生したのが、「未来編」で世捨て人のサルタ博士の助手として活躍したロボット・ロビタだったと知った時には、唸った。
 だが、連載はスムーズには進まなかった。73年には「COM」休刊により中断。3年後に朝日ソノラマの「月刊マンガ少年」で再開するも81年に再度休載。86年には角川書店の「野性時代」で復活したが、89年2月9日には作者が亡くなってしまった。
 生前に出席したファンの集まりで手塚治虫は「最後は21世紀を舞台にしたアトム編」と話していたが、最終話になった「太陽編」連載当時に角川書店社長だった角川春樹氏との対談では「自分が死ぬ瞬間が現在」とも語っている。つまり、手塚の死によって「火の鳥」は完結したと考えてもいい。
 手塚が生み出した永遠の生命の象徴・火の鳥は完結した悠久の輪廻の時を飛び続けている。私たちが直面するさまざまな災厄も火の鳥にとっては小さな挿話のひとつにすぎない。
「火の鳥」を読み返しながらそんなことを考えると、なんだか気持ちが休まるよう私には思えたのだが……。

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