「意味の分からないまま戦った等身大の1年間」と「爆誕した人生の夏休み」
ワクチン後、1年間体が変な話
「ワクチン後遺症」「ワクチン副反応」
世の中に似たような状況の人が沢山いるようだけど
何だか陰謀論などと混ざって拡散されているから
大っぴらに言いづらい。
それでも私は、誰かに伝えたい。助けを求めたい。
「ワクチンを打ってから自分の身体がおかしい」
2021年8月4日に戻れるなら、
絶対にワクチンを打たないよう過去の私に言うと思う。
現に接種から1年経った今でも私は後悔している。
(ワクチンを打っても回復できる人たちも沢山いるので、一概にワクチンが悪いとは思わない。しかし、政府の対応には少々疑問があるしプロパガンダを恨んではいる気もする)
とはいえ私は自己責任で打ったし、何より「体質的にワクチンを打てない人も居るのだから健康上の問題のない私は打つべきだ」と思ったから打った。
だからこの記事は、誰かを責めたくて書いているわけではないことを先に書いておく。
だけど、こんなにも私の当たり前が
どんどん崩れるなんて思ってもいなかった。
2度目のモデルナ接種。なんかやばそう。
2021年8月4日 2回目のモデルナワクチン摂取をしたわけですが、打ってすぐは体のだるさと異様な眠気だけ。
謎にキックオフ的なイベントに参加しなければならず、渋谷へ直行。(今思えばやめとけばよかった)
帰宅後、24時ごろから急に熱が39.8くらいまで上がってきて寝ていたら呼吸が上手くできなくて目を開けられなくなった。
東京で一人暮らし、深夜に頼れる人は誰もいない。
気を抜いたら窒息死してしまうと思うくらい苦しくて、全身が痺れて感覚が無くなっていくのがわかった。
1時間葛藤した頃、ようやく山口の母に電話した。
声を聞いていると少しずつ呼吸が戻っていったけど、それでもずっとうまく呼吸できなかった。
5日くらいで熱は下がったが、息は苦しいし胸は痛いし、口の中は息苦しさでもがいていた時に怪我しまくって何を飲んでも食べても痛かった。5日で5キロ減った。蕁麻疹が引かなくて全身が痒くてたまらなかった。
動くと胸が痛くて、息が苦しくて歩けるわけがなかった。だから病院にも行けなかった。(タクシー呼べよと思うけど、何だかタクシーは煙たいので絶対無理だと思っていた)
ワクチン接種から1週間後、ようやく近くの内科へ行った。出されたのは喘息発作の時に使う緊急吸入薬サルタノールだけだった。ずっと続けて苦しいのに緊急吸入薬だけって何?と思ったけど、喋るだけでしんどくて上手く伝えられず。
ひどめの喘息だった
3日後、呼吸器内科へ。
心電図、レントゲン、血液検査、喘息の検査をしてくれた。「心膜炎だったかもね、今はもう治ってるみたいで分からないけど」と言われた。そして問題は喘息で、呼気中の一酸化窒素濃度の基準値が21以下なのに対し92という数値を叩き出した。
「立派な喘息じゃないか」と炎症を抑えて軌道を広げる薬を出された。(ここから約1年ずっと使ってる)
「これでようやく治るんだ」
確かに息苦しさはかなり軽減された。
それでも息は苦しいし、胸も気管支もみぞおちもあちこち痛い。痛みがひどくて、息が苦しくて眠れない日々が続いた。歩くと息が切れて、胸が痛くてうずくまった。出かけるなんて無理だった。
これ以降、1ヶ月くらいに渡り100メートルを自力で歩けなくて座り込む日々が続いた。歩くと上手く息ができなかった。スーパーまでも行けなかった。煙や匂いがとことんダメで、食べられるものが減った。コーヒーや鰹節は煙っぽくて呼吸が苦しくなるように。家の目の前のコンビニへ行くにも、歩きタバコや車の排気ガスで苦しくて動けなくなった。この頃から感覚過敏だったし、そこにないはずなのに家の中でも煙の匂いを感じたりしてた。異臭症ってやつかな?
それでも院の同期と頑張りたかったプロジェクトがあったので時々ラボへ足を運んだ。出かけると、そのあと3日くらい息苦しさと痛みで寝込む。何なら出かけた日も途中で帰ったり、その場でうずくまっていた。何もできなくて、役に立てなくて、心配ばかりかけて無力だった。筋肉も落ちてはいるだろうけど、ペットボトルが開けられなくなった。
毎日上の血圧が90を切っていて、心拍数はただ座っているだけなのに100を超える。ただだだしんどかった。
そんな生活を続けているうちに気がつけば出かける事自体怖くなっていた。いつどこで自分がどうなるか分からないし、一緒にいる人に迷惑をかけるからだった。今思えばもうこの時点でパニック障害に近い状態だったと思う。電車に乗るだけで息が上手くできなくて、行きも帰りも胸も痛くて泣きながら電車に乗った。帽子とマスクで気付く人がいなかったのは幸か不幸か。あまりの苦しさに降りたい駅で降りられない時、誰かに助けて欲しかったけど言えなかった。息が苦しいなんてコロナの時代に言えない。
秋学期に突入したけど無理ゲーだった話
秋学期が始まった。幸いオンライン授業メインだったのでどうにか受けられた。この頃には既に呼吸器内科の先生に言われるがままに整形外科を受診していた。
整形外科で何もなければ心療内科へ行けとのことだったのでまた新たな病院へ行った。
11月になった。
この頃には息苦しさや胸痛だけでなくのぼせや火照り、めまいがどんどんひどくなっていた。 時折自分が起きているのか寝ているのか分からないくらような、今にも倒れそうな感覚があった。
何かを食べると意識が飛ぶ。決して沢山食べたわけではなく、5口くらい食べると意識が遠のく。何度も意識が飛んで頭をぶつけた。
もう1人で生活できななくなっていたので、母が仕事を休んで東京まで来てくれた。
心療内科へ行くと、自律神経失調症だと言われた。
私が出来るだけ漢方を減らして、置き換えられるものは錠剤にしてほしいと言ったために一部は抗うつ剤が出された。3種類の漢方、抗うつ剤1種類、喘息薬、アレルギー薬毎日薬だらけの生活で気が滅入っていた。
今度こそ治すぞと意気込んではいたけれど、薬が合わなかった。抗うつ剤は少量から処方されるため、1/8から処方されたはずなのだけど眠気と怠さと手足の震えで何もできないし、起きていられなくなった。授業のほとんどはグループワークのため、ミーティングが毎日たくさんあった。たくさん休んでたくさん途中で退出して、多くの人に迷惑をかけた。本当に胸が痛かった。でもどうにもできなかった。
震えてさらに歩きづらくて、力も入らなくなった。
相変わらずペットボトルを自分で開けられない。
箸を持てない。体重は夏から見ると7キロ減った。
食欲はない。
あまりにも震えるので医師に相談のもと、抗うつ剤はやめた。鬱ではないのに無理矢理飲む必要はないとのことだったのでさらに漢方生活を続けていくことになる。
沢山の人に助けられて秋学期が無事終わり、母と一緒に山口の実家へ帰った。正直秋学期の授業を受けた記憶もなければ、どうやって病院に行ったのかも、どうやって帰ったのかも記憶がない。この頃、人が何を話していても右から左へ抜けていて理解力と思考力の低下が自分でも分かった。理解できなくて悔しくて泣いたことだけは覚えてる。
人生で1番辛かった数ヶ月だと思う。
15分空き時間があれば倒れるように眠った。
実家に帰ってちょっと回復
実家に帰ってからも漢方、アレルギー薬、喘息役を続けつつ何もしない生活をしていると少し元気になった。頭が少しだけ回るようになった。空気が綺麗だからか呼吸も少し落ち着いたけど相変わらず胸は痛い。それでも漢方を飲んでからは割とマシだった気もする。
合わなかった抗うつ剤が体から抜けきり、多少出歩けるようになって1月半ばに東京に戻った。戻ってからは、本当は夏からしたかった就活とインターンを頑張った。
1日頑張ると2日は寝込む。それが分かっていたからスケジュールの組み方にはかなり気を使った。出かける日が決して連日にならないようにした。
2月の半ば、行きたかった5daysワークショップに参加。研究のためには行くべきだと思った。やはりここで相当無理をしてしまったのだろう、また体調は右肩下がりになった。
3月、昨年の6月から続けていたインターンを突如解雇される。(パフォーマンスダダ下がりなのに雇い続けてくれていたので感謝しかない…すみません…という気持ち)
それもあって就活に専念しつつ、時々知り合いの卒業式の撮影をしては寝込むを繰り返した。
新学期突入
2022年4月、新学期が始まった。
始まってすぐ、研究室同期と打ち上げ旅行へ行った。私は結局寝込んでばかりで何もできなかったのに参加していいのかかなり悩んでいた癖に、旅行に参加した先で夜中の2時くらいに酷めの過呼吸を起こした。救急車沙汰に。まじで自分の体を信用できない事を思い知った。
この後しばらく体調が戻らず、胸が痛すぎて動けない日が続いたけれど授業と写真の会社でのお仕事と、同期が誘ってくれたデザインの業務を自分なりに頑張っていた。
5月、ポカリを買いにスーパーへ行ったら動けなくてうずくまって、知らない人に病院に送ってもらった。点滴を受けた。なんの点滴だったかもう覚えてない。
研究は全然進まなかった。誰かが道を示してくれたものはやるべき事が分かるから責任感で乗り越えられたけれど、研究は自分の事だし答えのないものを考えられるほど私の頭の霧は薄くなかった。(執筆中の2022年の8月でさえ頭の中にモヤがあるように思う)
5月、今まで感じたことのない突然足の痺れ、震え、痛みを感じる日が増えた。ひどい日は腰から下の感覚が変なので歩けない。二の腕や指先、顔もピクピクして力が入らない日が増えた。
手につかなくなったので写真とデザインのお仕事は始めたばかりなのにお休みさせてもらった。
6月、研究室の先生とメンターさんに良い加減研究しないとまずいぞと本気で言われ始めた。重い腰を上げて色んな人の力と頭を借りてどうにかワークショップを2回やった。そこまでは良かった。
精神的限界に
体力と精神の限界がきてしまった。もう何もかもが嫌になって、頑張れていたものも頑張りたくなくなった。
ずっとずっと精神的にも限界が近いと思っていたけれど、ついにきてしまった。食べたくない、飲みたくない、何をするのも億劫。死ぬのは嫌だけど、面倒だから生きたくない。毎日辛くて辛くて泣いた。
人の優しさが痛かった。誰にも会いたくなかった。
元気な人を見るのが辛かった。
身体に当たるもの全てが痒い。蕁麻疹が悪化した。
37.8くらいの熱が下がらなくなった。
6月、コロナやワクチンの副反応外来のある国立病院を受診。予約して2ヶ月。長かった。膠原病でない事を確かめるために血液検査を大量にした。
そして中間発表を1ヶ月後に控えたタイミングで、実家へ帰ることを決めた。研究室の先生にも、メンターさんにも、同期にも相談しなかった。というよりも「頑張れ」「できる」と言われたくなくてあえて言わなかった。
帰る前に誰かに会いたくて日吉のキャンパスに行った。もう院へは戻って来られないんじゃないかと思った。
コロナであまり通ってもいないし、たった1年ちょっとしか在学していないけれどここで学べたことも、出会った人たちもとても私の中では大切だったのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
本当は去年の冬くらいから心は限界だった。休みたい、辞めたいけど同期は大好きだから踏ん張ってきた。限界だからといって一度逃げたら、もう戻ってこれない気がする。だから続ける。そう思って在学していたはずだったのに私は私のために逃げることを選択した。
別の研究室だけど入学当初から仲良くしてくれている同期に会って、2人で話していると色んな気持ちが込み上げてきてこれまた大泣きしてしまった。私はどれだけ情緒不安定なんだ。
次の日、研究室の同期には明るく「帰る」と伝えられた。前日のたすくに全てを話していたからこそできた振る舞いな気がする。たすくありがとう。
休学を決意
そんなこんなで母がまた迎えにきてくれ、一緒に帰省した。実家にいる間に研究室の先生には中間発表に出られる体調、精神状態ではない事、休学の意思を伝えた。
病院での検査の結果、膠原病ではなかった。
言われるがままに何件も病院を周り何度も検査した。
それで異常がないので、強いて病名をつけるのならば「機能性神経症状症」とのこと。どこにも異常がないのに脳が「○○が痛い」「○○よ震えろ」みたいなアホな指令を出している状況なのでは?ということなのだとか。ハードウェアに問題はないけど、ソフトウェアに問題があって、バグが治ってないんだそう。
診断ついたところで治療薬があるわけでもない。
出来ることはやりつつ、しっかり休養を取る事が今の私には1番の薬になるのだと思う。
今日届いた診断書は「コロナワクチン後の体調不良により、通学や一般的な生活が困難である」と書かれていた。これで休学の手続きが出来る。あ、まずい、奨学金止めてなかった。やらねば。
人生の夏休みを選んで思うこと
愛してやまない同期と一緒に卒業出来ないことは、休学を決めた今でも悔しくて寂しくて虚しくて。何とも言えない気持ちになる。頑張れない自分が情けなくなる。高い学費を出してもらって、無理して通わせてもらっている大学院。「本当は頑張れたんじゃないの?」「甘えじゃないの?」私の真面目な部分が頑張れない私を攻撃してしまう。
体の硬直、不眠、呼吸苦、胸痛、震え、しびれ、めまい、関節痛、筋肉痛、胃腸炎、下がらない熱、過敏症、思い出せないくらいのもの私は一度に抱えすぎた。
1年間、今までで1番意味のわからないまま戦った
1年間、今までで1番辛かった
1年間、今までで1番沢山の人に心配と迷惑をかけた
1年間、今までで1番の出会いと学びがあった
1年間、今までで1番辛くて、悔しくて泣いた
色々ありすぎたこの1年を生き抜いた自分を大切にするために、心も身体も休めようと思う。
どれくらいかかるかは分からない。
学校に復学するのか、東京に戻るのか、全てやめて実家で暮らす事を選ぶのか、私には色んな道があると思う。
何を選べば後悔がないのか今の私には決めきれない。
一つ言えるのは離れていても大切な人たちとの縁が薄くならないように頑張りたい。今はそのことだけ考えてる。
そんなこんなで、めちゃくちゃ悩んだ結果
人生の夏休みが爆誕しました。
これからも沢山の人に心配と迷惑をかけてしまうと思う。どれだけ出来るかは分からないけど、支えてくれる沢山の大切な人に少しずつ返していきたい。
自分に余裕が出てきたら、近いいつの日か、目の前のひとりや困っている誰かのためのデザインをしていける人になりたい。本当のインクルーシブデザイナーになりたい。
すきなものを好きと、すきなひとを好きと言いながら自分らしく生きていくために全力で回復します。
もふもふ達と同化しながらのんびりした日々を過ごします。
特にこの1年、心配と迷惑をかけた研究室の同期、家族には本当に心から感謝しています。ありがとう。
いつも横で癒しを与えてくれるうちの超絶可愛いもふもふ達、ありがとう。