見出し画像

アジェにはなれないけど

「ウジェーヌ•アジェ」という写真家がいる。
いる、とは言えども何せ昔の話で、乾板写真でパリの街を撮り続けた人だった。

彼は生涯、自身の事を芸術家と名乗らなかった。
それどころか、作品にクレジットを載せることも無かったという。
徹頭徹尾、絵画などで使うモデルとしての写真を撮り続け、それを販売して暮らしをたてていたらしい。

そんな彼が注目されたのは「シュルレアリスム」の先駆であった写真家「マン•レイ」に見出されたからだった。
居宅が近かったという単純な理由だが、マン•レイがアジェの写真を見た時に「これこそシュルレアリスムである」と評した事が始まりだった。
もしもマン•レイがアジェの写真を芸術行為と評さなかったなら、彼は観光絵葉書を撮影するカメラマンのように、誰に興味を持たれるでもなく、後世に名を残すという事も無かっただろう。

写真というのは不思議なメディアで、絵画のように作者の「爪痕」が残る事が無い為に、後世になっても語られる機会が希薄になりやすいところがある。
「作品に指紋が残らない」のが、写真と絵画の大きな違いだ。
ことにアジェのように、意識的に作品を残そうという意思が無い作家は、作品に痕跡が残りづらい。
痕跡が残らない、主張が見えづらいところが写真表現の魅力であり、尚且つ「高い偶然性」を保持しつつ芸術性を有するという、相反する二面性を併せ持っているのが、写真に魅いられる理由なのでは無いだろうか?。
アジェはそれを地でいった写真家であり、何よりもその事を恣意的に行うことが無いままに天寿を迎えたということは、実に写真家らしい最期であったと感嘆する以外に無い。

アジェの人生を、私は見聞きしてしまっているから、もうアジェにはなれない。
しかし憧憬を持ち胸に秘めながら、また街を歩こうと思う。

雨の横浜にて



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?