「生きる」を強調しすぎる弊害

今日の投稿は長くない.結論は出さずに問題提起をしておきたいからだ.

Huffpostというリベラル系メディアがある.僕自身は基本的な考え方が「少し昔の」リベラルに近いのでよく見るメディアなのだが,ALS嘱託殺人事件に関して2つの似たような投稿があり,その違いが興味深かったので紹介する.

この二つの記事を見比べてみてどうだろうか.言っている内容は障害者が「生きる希望」を持てるように政治が工夫していくべきだ,高齢者だからと言って命の選別はどうなのか,という主張であり同様のことを言っているようにも見える.

しかし,雨宮氏の意見は「こうあるべきだ」の一辺倒に対して,岩崎氏の記事には自分の主張もまた一つの意見であり,違う立場や意見が存在することもあるだろうということを想像した上で,あえて自分の主張を前面に出すのだという気概を感じる.

具体的には以下の部分だ.

自分の意に反して、無理に経管栄養をつけられたという人や、家族や担当した患者が、経管栄養や点滴につながれて苦しんでいる姿に心を痛めた経験のある人には、この詩に違和感や反発を抱くかもしれません。
栄養を吸収できないほどの衰弱があるとき、経管栄養を行うことがかえって苦しみを増し有効にならない場合もある。そういうことについて知らなかったわけではないですが、読者の感想に触れて、改めて丁寧に扱わなければならないことに気づかされました。
ただ、読む人によっては違う捉え方をされるかもしれないけれども、言っておくべきだと判断したら、覚悟を持って書いています。

最近のリベラル系メディアにはこのような「違う意見もあるかも」「自分の意見だけが正しいわけではない」というメタ認知が感じられる記事が少ない中で,彼の記事には良識と魂を感じて強い共感を覚えた.

ちなみに私自身は障害者福祉はもっと充実させていくべきだという考えと同時に,医療現場でいろいろな患者を見る限り,やはり年齢という要素は延命処置の是非を考える上で決して無視できない大きな要素だと思っている.それは倫理的問題や思想的問題というよりも,延命処置に伴う合併症への耐性やその後の転帰,老々介護で介護者もつぶれてしまったケースなどを間近で見てきた立場から,高齢者,特に後期高齢者に対する積極的延命処置が,患者や家族を幸せにするどころか,すべての関係者がそれぞれの価値基準に照らし合わせても誰も幸せにならなかったケースが多いと現場で実感しているからである.この部分は雨宮氏や岩崎氏は直接見聞きする機会が乏しい部分であり,多くの現場で悲しい気持ちになった医療者と思想から主張している障害者運動家が今後も分かり合えない部分であろう.それはそれで構わないのだ.

最期に「障害者」といっても決して一枚岩ではないことを示す記事を紹介して締めくくろう.れいわ新選組の舩後議員のような主張を必ずしも良しと思っていない,逆にそういう主張が自分の選択肢を狭めているのではないかと感じている障害者もいる.常に自分の意見は一つの意見に過ぎず,同じ境遇でも違う意見を持つ人がいるかもしれないということを頭の片隅にとどめておける人は暗黒啓蒙やインテレクチュアル・ダークウェブのような新潮流が現れてもしぶとく生き残っていけるだろう.

障害者が当事者として社会活動するからこそ,同じ考えの障害者だけでなく多様な意見や,文字にすらならなかった声なき意見にも耳を傾けてほしい.それが障害者運動家の主張がリベラル以外のより多くの人に受け入れられる条件ではないか.今後も障害者を応援していきたい,障害者をサポートする体制が厚くあって欲しいと思っている一人の人間からの激励のメッセージである.

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