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徳冨蘆花『不如帰』のチェコ語訳と当時の肺結核流行について

 新型コロナウィルス感染症が蔓延ってまもなく、感染症というものを主題とした文学作品、なかでも近現代文学の作品を読み直し、その内容を、これまでのわたしたちの生活を根こそぎ覆した今回の感染症と結びつけて考えるという動きが起こった。過去の〈流行感冒〉を取り上げた作品はさまざまな示唆に富んでいるが、このような動きは、昔の作品の中から何かを、例えば、実用可能な知識を学び取るためではなく、むしろ今日の状況に照らし合わせながら過去の作品を、今までとは違った観点から眺め、新たな解釈を試みることが目的であることは言うまでもない。パンデミックによってもたらされた状況をメディアが繰り返し「未曾有」と形容してきたが、過去の作品を読み返してみると、近代人の生活も、赤痢やコレラ、結核など、危険度の高い感染症によって絶え間なく脅かされていたことがよくわかる。

 肺結核に体を蝕まれる人の苦しみを描いた作品といえば、石川啄木の短歌や正岡子規の俳句などを挙げられるが、なかでもよく知られるのは、明治文学の最大のベストセラーと言われる徳富蘆花の『不如帰』である。周知のように、この長編小説は、日清戦争という歴史的な事件を背景に、肺結核を発症したため離縁させられ、病気の進行と孤独に苦しみながら僅か20歳で亡くなる女性の悲劇を描いたセンチメンタル小説だが、日本の旧民法において無能力者とされ、人の意のままに生きざるを得ないという当時の女性の社会的地位や、肺結核の患者への差別意識を問題にした点では注目すべき作品であろう。ただ、日露戦争が勃発して日本への関心が高まりつつあった1904年に刊行された『不如帰』の英訳は、海外で、封建的な価値観や根深い差別に打ちひしがれる女性の苦悩に注目して読まれることがあまりなく、近代日本の世相や日本人の日常生活の様子を色鮮やかに伝える資料として認識されることが多かった。しかし、この作品の海外受容の背景に、──当時の英語圏の書評を見るかぎり、そのような解釈がみられないが──、肺結核流行への意識も静かに動いていたのではないか、と最近私が思う。少なくともその可能性がある。

 チェコスロヴァキアでは『不如帰』の翻訳が1922年に刊行された。1904年の英訳を底本とした、B・M・エリアーショヴァーによる重訳である。(スペイン語訳やスウェーデン語訳は早くも1904年、ドイツ語訳とポーランド語訳は1905年、ポルトガル語訳やフィンランド語訳は1906年、フランス語訳は1912年に出ているのをみると、チェコ語訳の刊行は比較的に遅い。)

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    エリアーショヴァー訳『ナミコさん』(『不如帰』)の初版

 結核のワクチンが初めて使用されたのはその前年、1921年のこととされているが、チェコスロヴァキアで予防接種が義務化されるのは戦後になってからである。戦間期、とくに第1次世界大戦後のチェコスロヴァキアでは、結核の蔓延は深刻な問題であり、老衰をのぞけば、もっとも死亡数の高い死因であった。世界的に有名な作家フランツ・カフカが1924年に40歳にして喉頭結核で死亡し、プロレタリア詩人のイジー・ウォルケルもまたこの年に結核のため僅か23歳で夭逝している。

 この時期の統計を見てみると、例えば、1920年のチェコスロヴァキアでは176.562人の死亡が確認され、そのうち26.480人は結核(肺結核は23406人)のため死亡している。1920年のチェコスロヴァキア人口は9.978.000人であったため、10万人当たりの結核死者数は265人。ちなみに、ジョンズ・ホプキンズ大学のデータによると、チェコ共和国におけるCOVID19による10万人当たりの死者数は2月2日現在、153.48人。そこからも明らかなように、結核、なかでも肺結核の治療と予防対策は、1918年に新しく誕生したチェコスロヴァキアの政府にとって喫緊の課題のひとつであり、チェコスロヴァキアの初代大統領も結核撲滅に尽力している。

 上記の統計をみると、『不如帰』のチェコ語訳は、結核という脅威が国民の日々の生活に黒い影を落としつづけていた頃に刊行されたことがわかるが、こうしたなかエリアーショヴァーがこの作品を訳したのは、果たして偶然であったのだろうか。憶測の域を出ないが、まわりに猛威を振るう結核が彼女の目をこの作品に向かせた、とは考えられないか。彼女にはこのような問題意識がなかったとしても、当時のチェコスロヴァキアでこの作品を紐解いた読者は、そこに、遠く離れる、夢のような世界とともに、自分の日々の生活にも通じるものを──肺結核患者への差別意識は当時のチェコスロヴァキアでも浸透していた──を見出し、胸を打たれただろう。

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