見出し画像

【海外赴任】海外で仕事をしていて、本気でビビったこと

誰しも仕事をしている中で、何度かは、ビビる体験をしていると思う。

例えば、怖い上司に大会議で詰め寄られた時、担当する会社で巨額の焦げ付きをだしたとき、何十万円もかけて制作したポスターに、見逃せない誤字を出してしまった時、など。

30数年のサラリーマン生活で、私も数々のビビった経験があるが、入社7年目くらいに、これは死ぬかも、というくらいビビったことがあるので、今日はその事について書いてみようと思う。

その事件は、インパクトがあまりにも強烈だったために、それ以来、ビビることがあっても、あの時に比べたら全然大丈夫という、私のお守りのようになった。

入社3年目に香港に赴任になり、毎日のように中国顧客の工場を訪問営業していた。
中国顧客は、私から電子部品を購入して、VCD プレイヤー(CD規格でビデオ映像を再生できる)を製造していた。
当時、偽物映画や、カラオケなどのVCDは、一枚数十円程度で販売され、瞬く間に、一般家庭における娯楽として浸透した。
それまでCDは、全然売れなかったが、VCD規格が追加されたとたんに、爆発的にVCD プレイヤーが売れ始めた。

その結果、私が販売する部品は、あっという間に供給不足になった。
私は中国南部担当で、30社以上の中国工場と取引をしていたが、その全ての社長から、供給催促の電話やメールが入るようになった。

私の部品単価は当時30-40ドル程度であったが、部品不足のために、中国顧客は200-300ドルぐらいするVCD プレイヤーの販売機会を逃すはめになるので、中国社長はみな必死だった。

月に1万個不足した場合は、売り上げベースでの損失が約300ドル x 1万個で300万ドル。
売り上げの20%くらい儲かるので、300万ドルx20%=60万ドル=7,200万円/月、くらい利益の機会損失をする計算となる。

電話で謝り、メールで謝り、それでも納得がいかない社長さんが、深圳事務所にやってきて、私が、直接face to faceで謝るということになる。

中国人社長さんの中には気性の粗い人もいて、それこそ口角から唾を飛ばし、顔を数cmの距離まで寄せながら、文句も言う人もいた。
しかし、その程度のことは、中国で営業をやっていれば、まま、起こることなので、気持ちは沈むが、ひどく落ち込むことはない。

顧客の中で、私が一番恐れたのが、人民解放軍と関係のある工場である。
人民解放軍は、兵士だけで200万人ほどおり、その家族や親族を含めた数百万に、衣類や、たばこ、時計等、いろいろなものを解放軍ブランドとして製造販売しているという話しだった。
そして、VCD プレイヤーも関連工場で製造するようになっていた。

この人民解放軍の工場長が、とても怖かった。
夜の宴席などでも、必ず数名の体の大きい兵士が彼をガードしていた。
兵士は軍服姿で、拳銃も携帯していた。
当時は、武装警察と解放軍が、違法輸入品などをめぐってもめたりしている時代であり、一度は銃撃戦にまでなった話が、新聞に載ったりもしていた。

その怖い工場長から文句の電話が入る。
営業経由で伝えた供給数では、お話しにならない、最低その10倍は供給してほしいと言う。
冗談なのかもしれないが、なんなら、40feetコンテナ一杯の解放軍ブランドのたばこをプレゼンとするので、供給数を増やして欲しいという。

OKなら、今からすぐに私の深圳事務所に向けて、たばこを積んだトラックを出発させると言う。

当然、供給を増やす余裕はないと回答し、たばこも要らないと断る。
すると、それは、たばこではなく、現金をよこせという意味かと聞いてくる。
私は焦りながら、イヤイヤ個人的なお金を要求しているのではないと答える。  

彼は、お前は深圳所長で偉いのだから、各顧客への供給量を調整できるはずだ、となかなか納得してくれない。
私は、所長というタイトルは持っているが、一介のサラリーマンに過ぎない。
組織の中で働いており、各顧客への供給量は過去の出荷実績に基づいて公平に計算されている。
その数字は各営業マンだけでなく、本社も含めて情報が共有されているので、私の一存で変更することはできないと説明する。

電話越しの罵倒が数十分ほど続いた後、工場長は、本当に悔しそうに、こんな大きなビジネスチャンスをみすみす逃すのは、とても辛いと話した。
そして、お前が供給量を増やせないことは分かったが、今日はあまりにも悔しいので、今晩は俺と朝まで飲み明かすのに付き合ってくれと言った。
お前は大した裁量権を持っていないようだが、自分の時間くらいは自由にできるだろう、と。

私は、とっさに、明日の朝一番で香港本社で会議があるので、今晩は香港に戻らないといけないと嘘をついた。
工場長が会議は何時からだというので、朝9時からだと私が答えると。
分かった、なら、明日の朝7時半に香港国境に送るので、それまでの時間、私に付き合って欲しいと言われ、私は観念をして応じることになった。

夕方5時頃に、彼の部下が深圳事務所に私を迎えにきた。
解放軍の赤字で書かれたナンバープレートを付けた欧州車が2台。
一見普通の黒塗りの車に見えるが、覆面パトカーのようになっており、私が乗り込むと、サイレンが鳴り、フロントグリルの中では緊急灯が赤く点滅した。

そして、高速に乗ると、渋滞をよそ目に、その路肩を猛スピードで一路、東莞という繁華街に向けて走った。
その日の宴会は相当大変なものであったが、その事はまた機会があれば書こうと思う。

しこたまお酒を飲み(私はお酒が弱いので4回くらいトイレで吐きながら付き合った)、美人局にも遭わずに、翌朝、約束通り7時半に香港国境に送ってもらった。
車から降りた時の解放感は、今でもよく覚えている。

当時の中国は法整備が整っておらず、ビジネスに絡む殺傷事件や、賄賂などが横行していた。
中にはある日突然に姿が見えなくなる代理店の営業マンや駐在員などもいた。

私は、その中で6年間の駐在期間を無事に過ごして日本に帰ることができた。それができたのは、この解放軍の怖い工場長との一夜があったからだと思う。

中国ビジネスの怖さを直接、肌で感じる機会があったために、油断をして道を踏み外さずに済んだ。そして中国ビジネスの経験は私のキャリアの土台となった。

ちなみに、この解放軍の工場長とは、これを契機にとても仲がよくなった。
朝まで付き合ってくれた外国人は、お前が初めてだと言われ、気に入られた。
ビジネスを越えて、人対人として付き合うことの大切さを、私は学んだのであった。

超強面の人であったが、付き合ってみると、その人柄はとても仁義に厚く、商売に関しても、フォーキャストで入れた物は必ず購入し、また、支払いが滞るということも、一度もなかった。
                  










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?