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残夢【第一章】②供述

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鳩巻署に連絡を入れた時点で刑事課は色めきだっていた。
 
住宅街で盗難車の聞き込みをしていた俺と後輩の山下が、偶然出くわした傷害事件。師走の住宅街で蓄電池の営業に回っていた男性が見知らぬ女に小さな刃物で切り付けられた。
その悲鳴が聞こえて二人が駆け付け被疑者はすぐに確保。救急要請して運ばれた被害者男性は客の家を出たばかりでコートをまだ着ておらずスーツの背中が大きく引き裂かれ腕には複数の防御創が見られたが命に別状はなさそうだった。

傷害事件自体が珍しいという訳ではない。だが、見知らぬ女からの切り付け事件。女の人着にんちゃくから俺も山下もとっさに「連続通り魔」のことが頭によぎった。

最近、隣の前崎東署管内で三件立て続けに起きていた事件で目撃されたのは「トレンチコートの女」。

三件のうち二件は軽傷。すべて同一犯の仕業とは限らないが一件は被害者が搬送先の病院で命を落としたため現場となった前崎東署に捜査本部が立っている。鳩巻署の強行犯係も数人応援に駆り出されているところだ。

偶然、目の前で起きた傷害事件で捕まえたこの女がもしくだんの殺人犯だとしたら大手柄だ。隣の帳場につめている捜査本部の人間に連れて行かれる前に、俺たちでそれを吐かせたい。

誰もがそう思い、被疑者を乗せたパトカーが署に到着するのを待っていた。

 
鳩巻署に入ると交通課や生活安全課の人間が山下に連れられて歩く女の顔を見て「あっ」と声をあげた。
その記憶は正しかった。

女の名は、近堂ひろ子。
住所は前崎市南町×××。自宅で書道教室を営む三十八歳。

遺失物の届け出、軽微な交通違反の自首、そしてストーカー被害の相談。近堂は最近になって何度が鳩巻署管内に足を運んでいることがすぐに判明した。

知らない男につけられている、ストーカーから助けて欲しいと言って相談に訪れたときは、詳細を聞けば曖昧な記憶の実害がない話ばかりで埒が明かない。前崎市の自宅近くでの被害がなく鳩巻市内で恐怖を感じるというのも変な話だ。そんな話で一般市民の警護をつけるほど警察は暇ではないと相談員は心で思いながらも、できればお住いの市で相談をすることと、何かあればいつでも110番してくださいと伝えてお引き取りねがったことがあるという。

記録を見返してみれば、その相談に訪れた日が、前崎東署に帳場が立った「連続通り魔殺人事件」の犯行日。
相談を無碍むげにされた腹いせに犯行を行ったか。
この女は短絡的で自己中心的。この女が連続通り魔犯ならばきっとすぐにボロが出る。
誰もがそう感じた。

ところが意に反して、鳩巻署で取り調べが始まったその女は自分の最低限の素性以外、何も語らなかった。

女は、強行犯係主任の小池さんが取り調べ室に入ると溜息をつき、部屋を出ればわずかに瞳を見開き口角を上げ背筋を伸ばして入り口を凝視する。そしてまた主任が入室するやいなや落胆の色も隠さず黙秘を続ける。


そうこうしているうちに、この女は通り魔犯でないことが判明する。

生活安全課の相談員は相談内容を記した書類に分単位までの正確な時間は記録してはいなかった。ところが、その日の鳩巻署の出入り口付近の防犯カメラの記録から、女は相談後に受付の椅子で自販機のお茶を飲み、テレビモニターを見たり市の広報誌を捲ったりしながら時間を潰してから署を後にしていた。
その時間に犯行現場まで車を飛ばしたとしても間に合うとは思えない。
間違いなくアリバイが成立している。近堂は隣の殺人事件とは無関係だった。

刑事課全体の士気がぐっと下がった。

連続通り魔でないなら、今回の被害者男性がこの女のストーカーだったのではないかとの疑いが浮上し病院で慎重に話を聞くも「あんな女、知らない。見たことない」という被害者の話に嘘はなさそうだった。


「ケンさん、お願いできるか」

夜遅くになって係長が俺に女の取り調べを命じた。
今回の傷害は現行犯のため仮に何も話さなくても送検は出来るだろう。だが、殺人事件の犯人ホシではなくとも何かしら関係があるか余罪がある可能性も捨てられない。
係長と共にマジックミラー越しに女を観察した。

女は椅子に浅く腰掛け、姿勢を正すとともにシャツの襟もとの匂いを軽く嗅いで確かめている。僅かに眉尻を下げたかと思うと首を軽く振り、頭髪を右手で撫でつけながら軽く咳払いをして居住まいを正す。少ししてマジックミラーを覗き込もうと首を伸ばすが腰縄のついた椅子に座ったままでは自分の顔が見えないことに気付き、拗ねたような表情を見せる。それを見た係長はフッと鼻で笑う。

女は地味だが整った顔立ちをしている。化粧をしなくてもスーパーの買い物くらいは問題なく行けるだろう。これと言って特徴のない中肉中背、年相応の女。

「自意識過剰な噓つき女だ。慎重にな」
係長が俺の肩を軽く叩いた。

取り調べ開始の合図と受け取った俺は隣の部屋に向かう。
開けられたドアの前で足を止め中に座る女を見ると、足音に気付いたらしい女はピンと伸ばした背筋で首だけをドアに向け、視力が悪いのか一瞬目を細めたあと俺を認めて大きく息を吸った。

ふたりの視線が交差した。

警察署内の薄汚れた取調室なのに、だ。
朝露に濡れた若葉を撫でながら走る風が一瞬で俺を取り囲み、そして加速して通り過ぎる。
雨上がりの泥濘にうっかり靴底を掴まれてしまったような、二度と出られない空間に足を踏み入れたような得体の知れない恐怖にかられて次の一歩をなかなか踏み出せない。

すでに入室していた補助官が不思議そうな目で俺を見た。
「ケンさん、どうしました?」
「いや、なんでもない」
気を取り直し、重い足を引き摺るように動かして女の向かいの椅子に腰掛ける。女は抑えきれない喜びの笑みを浮かべては頬に手を当てそれを制止する。上目遣いで俺の顔を伺い、そして目が合いそうになると恥ずかしそうに眼を逸らす。

気持ち悪い。やめてくれ。

明らかに色目を使って見逃してもらおうとする女の被疑者はいる。うちの店にくればサービスするよ、あるいは愛人契約しようと言ってくる奴も。
凶悪事件の捜査でそんな言葉に揺らぐような警察官サツカンはいない。はだけた胸元を押し付けられようともだ。
だが、この女の不気味さはそれらと違う。

処女のような表情を纏った女に俺は切り出した。
「古河秀喜」
はにかんでいた女はピタリと動きを止め俺を覗き見た。
「フルカワさん?」
女は久々に言葉を発した。俺はその言葉の続きを待った。
「フルカワヒデキさん、とおっしゃるんですか。私は近堂ひろ子です」
襟と胸元を少し整えてから頭を下げる女に向かって俺は言葉を吐いた。
「違う」
「はい?」
口元に手を当てたままの女は戸惑ったように眉を上げて俺を見た。
「古河秀喜さんはあなたがナイフで刺した男性です。何度もここでその名前は耳にしたはずですが」
ポカンとした表情を浮かべた女は一瞬の後、両手で口元を抑えケラケラと笑いだした。

「嫌だ私ったら。ごめんなさい。てっきり貴方が自己紹介をしてくださったのだと思って。他の方がそうだったから。すみません、『ケン』さんでしたよね」

顔を真っ赤にして両手で覆い、嫌だ恥ずかしいを繰り返す。
女は被害者とは本当に面識がなかったのだろうが、だからといって笑う場面ではないはずだ。精神異常を装うほどの演技ではない。ごく自然に世間話の延長のような笑みを浮かべている。

その女がなぜ、白昼堂々自分より力の強そうな見ず知らずの男性を傷つけようとしたのか。刃渡り僅か八㎝の果物ナイフで急所を外して何度も傷つけたのか。そのちぐはぐさがかえって異常性を引き立たせる。

だが今は女の機嫌がいいのかもしれない。どんどん話を引き出すべきだと俺は次の質問を発した。

「私は堂森です。近堂さん、名前も知らない男性に何故あんなことをしたのか。私に話していただけますか」

女はピタリと動きを止めた。
顔を半分覆っていた両手を静かに動かす。徐々に顔が露わになると同時にまた姿勢を正し、俺を真正面から見つめたままでゆっくりと、とてもゆっくりと顔を綻ばせた。

眉、目元、頬、口元。
そのどれもがゆっくり上下して完全に幸福を象徴する形を完成させたとき、上唇と下唇が離れて吐息のような言葉が漏れた。

「逢いたくて。あなたに」

女はそう供述した。


「お七」へつづく ▶


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