学校検診の件の話
以前のあった検診、コーチの話にも大いに関係ある話だとおもうのでリンクを貼ります 最初にみてください
学校検診の件
子どもを一人の人間として見てない人 多すぎるなと感じます
「子どもの尊厳を守る」と「子どもの健康を守る」
これは天秤にかける話ではないし段階でいったら
「子どもの尊厳が守られる環境、体制作りが先」なんです
私が発達支援、福祉の現場にいたからより色濃くそう考えるのだと思いますが、道理からは外れてはいないと考えています
例えば
言葉で気持ちを伝えられないお子さん
寝たきりのお子さん
そういったハンデを抱えるお子さんの気持ちを汲み取るためにいろんな思考錯誤をするんです
絵本で伝えてみたり
瞬きでくみ取ってみたり
手の握る力で判断したり
その中で「お子さんの気持ちはどういうものなのか」を日常の中で把握していくんです
お子さんがどんな気持ちでいるかもこちらの想像でしかないケースなんていくらでもあるんです
それでも怪我の治療はしなければならないし
それでも注射は打たなければならないし、
それでも歯の治療もしなければならない
気持ちのくみ取りを間違えているのかさえ分からない暗闇みたいな状態なんです
なぜそんなことをするのか
みんな等しく「人間」だからです
嫌なことは嫌という権利があります
文句を言う権利があります
やりたいことをやりたいという権利があります
分かってから物事に取り組む権利があります
嫌だけど今から行うことを理解する権利があります
だから納得が得られれている確証はなくとも、「納得してもらってるかもしれない」という状況を関わる大人は一生懸命つくっていくんです
その試行錯誤の中で「子どもの尊厳を守る行動や声掛け、分析」が大人の意識や体制が少しづつ形作られていき初めて「子どもの尊厳が守られる」んです
別にこれは特別なことではなく、お子さんの苦手さや障害、個別性に合わせたものです
だから今回のケースでは
言葉を話せる
表情にだせる
他者と会話できる
少なくともそういった力のある学校に通えるお子さんなら、より確実性のある意見をもらえたり説明のやり方、納得してもらえる方法、体制づくりもなおさらあったでしょう
と悔しいのです
行った医師の態度に嫌悪感、怒りを覚えますし、報道されてはいませんが、
上記のような配慮の必要なお子さんに対しても同じような検診を行った可能性が高い
ことも、憤りの原因でもあります
これは子どもに関わる大人の「怠慢」以外何物でもないでしょう
「説明もなく、無理やりやらせる」簡単で過程を省いた方法
「病気の早期発見」が「子どもの尊厳を守る」という「大義名分」とすること
それは「道理に合わないことを強引に正当化しようとする論 「詭弁」です
「子どもの尊厳を守る」ひいては「人間の尊厳を守る」ことは
「病気の早期発見」や「他のリスクを見つける」
より前の段階で達成されていなければならないものなのです
じゃあどうすればよかったのか という話ですが
少なくとも依頼された段階で医師は、「自身の中で診たい内容」があるのであれば学校側と協議して
子ども達への説明の時間をつくる
もしくは教員にその説明を委託する
といった手段が考えられます
これが「お子さんの尊厳を守る」ための医師ができるインフォームドコンセントの取り組みの一つではないでしょうか
また、教員側は健診の方針や、子ども達の現在の様子を取りまとめ医師側に伝えることができたのではないでしょうか
そして子ども達に「こういう内容の健診を行うがどうだろうか」と投げかけ、意向を聞く取り組みができたのではないでしょうか
今回の一件は 医師にも、教員にも責任があります
こういった話をすると
「絶対に嫌だと言うに決まっている」と主張する人がいますが
これが「嫌」と言えるのが「尊厳」「人権」「自己決定権」なのです
関わる大人はお子さん、保護者に説明し、納得を得られるよう努力しなければなりませんと
今回の話はこれがすっぽり抜け落ちていました
私はこれが医師の「加害行為」と言われてもなんの擁護もできないと感じています
他者へ説明、納得を得ずに行われる強制的な行為は「犯罪」と言えるのではないでしょうか
医師の人権はどうなるのか
忙しい、数少ない医師にそんな重責を負わせるのか
服を脱いだら診断が捗るのだからいいのではないか
という話も散見されましたが、専門職の「有資格者」は大抵「犯罪になり得る行為」と紙一重です
看護師だって説明、納得なしに注射を打ったら傷害事件ですし
支援員だって根拠や説明、納得を得ていない拘束行為が「監禁罪」になり得ます
保育士だって抱っこでさえ身体拘束なり得ます
別に医師だけが特別ではありません。皆さんそれぞれの職責を全うしています
数が少ない医師だから許される
忙しいから許される
であるなら、それこそ唾棄すべき「権威主義」であり、専門職が注意すべき「パタ―ナリズム」です
そしてこれが「子どもの尊厳を守ること」と天秤にかけられるものではないのは当たり前の事でしょう
今回のこの一件でSNSではありますが、「お子さんの尊厳の守られていない環境、実態、大人の意識」が公になったと考えています
それどころか、「子どもの尊厳を守るべき」と冷静に主張する人達を、人格否定、意見の曲解からの攻撃する始末です
それは一般の方はもちろん、医師を名乗る人も行っています
それは自身の専門性を貶める行為のみならず、他の医師の専門性への疑念も抱かせる「信用失墜行為」です
自分自身の考えの擁護よりも「今後どういう体制を作れるかの議論」が必要ですが、それを行っている方は少ない印象です
それは「この人たちが今後も子どもの尊厳を守ることができない」の証明、根拠になってしまうのではないでしょうか
「子どもの尊厳を守るため」と言いつつ
「自身の主張の正当性を守るためにに動いている大人」
多すぎるなと感じました
結局その主張もちぐはぐになり、最終的に「誰を守っているのか」分からなくなっているでしょう
それは道理や、整合性、合理性がとれていないということです
「子どもの尊厳を守ること」の大人がとるべき具体的行動は、大体ほぼルートは決まっているんです
議論がそこに向かわないのは何かしらの
「大人の都合」
があるからです
それを優先させるから話が合わない、そもそも合わせる気がないでしょう
福祉に携わる者として
非常に残念で、
暗澹たる気持ちになった一件でした
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