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大人になりたくないんだよ

 こんばんは、台風による影響が全国各地で発生しているようですが、いかがお過ごしでしょうか。皆様のご無事をお祈りしています。

さて、今日は、最近ずっと考えていること。

大人になりたくない

以上。大人になりたくなさすぎる。現在大学3年生の21歳。小学生から見たらきっと立派な大人だ。いや、中学生から見たって立派な大人か。如何せん自己認知としては、どっからどう見ても子供である。

 バイト柄子供と関わることが多いので、自分のことを大人だと意識しながら話すことが多いのだが、そこでよく私がいうのが「よく知ってるねぇ!私は大人になるまで知らなかったよ!」という台詞である。こういうと、私が大学生だと知っている子供はよく「〇〇さんはまだ大人じゃないでしょ」という。なるほど。子供たちの中では、どうも学生=大人じゃない、ようである(だとしたら、博士課程まで行っている”学生”たちはまだ大人じゃないのか、問いたくなるが)。中には、20を超えたら大人だという子供もいるのだが、やはりその子の中にも、もう大人(20歳を超えている)なのに学生をやっているということに違和感を覚えるらしい。

じゃあ、一体大人ってなんなのさって話

 おそらく、子供たちの感覚で行くと学生=仕事をしていない=自分でお金を稼いでいない=大人じゃない、なんじゃないかと思う。確かに、私はアルバイトをしてお金を稼いでいるものの、学費や家賃は親に出してもらうという、経済的に自立していない人間であるという点において大人ではない。でもね、アルバイトではね、1人の大人として見られんのよ。もう大人なんだからこれくらいできて当たり前でしょ?大人なのに、こんなこともできないの?っていう目で見られるようになるの。大学生は大人じゃないとすると、人間はいつ大人になるのか、大人にならずに済む方法はないのだろうか。

 人々はルソーが「子供を発見した」というらしい。子供は発見されたが、その後大人は発見されたのだろうか。一般的に考えると、大人とは2つの意味があるみたいだ。1つ目は、年齢。大人というよりかは、成人という言葉で表されることが多いが。20歳超えたら、もう自動的にみんな大人。それには多分「自分の言動に責任を持つ」ことができる(できるようにする)年齢なのだと思う。だから、このふるいにかけられてうっかり残ってしまった「大人になりきれなかった人」が存在するのだろう。そして、2つ目は精神的な問題である。責任を持てるとか、自分を管理できるとか、人に寛容であるとか、物知りであるとか。この条件が成人でないものに当てはまれば子供に対しても、「大人だねぇ」なんていったりするものだ。

 この条件で言うと、私は前者で言うと大人なのだが、後者でいうと全くの子供である。このままでは、大人になりきれなかった人界隈に両足突っ込んでしまう。

子供の頃に思い描いていた大人

 かくいう私だが、つい最近(もうすでに卒業から3年も経ったと思うと背筋が寒い)の高校生だったときはよく「大人になりたい」なんて口にしたものだった。大人になれば、バリバリ働いて、自由に暮らして、お金を稼いで、いろんなものを手に入れて、、。そんなことを考えていたらワクワクが止まらなかった、早く大人になりたいと思った。元来キャリアウーマンなるものに憧れがあり、中学1年生の家庭科の授業で書かされたライフプランでは、クラスで1人だけ子供を産まない生活を選び、旦那と共働きをして大黒字を叩き出すと言うといった子供だった。だから、好きな映画は?と聞かれて上位に上がるものは「プラダを着た悪魔」や「マイインターン」であった。しかし、年齢的に大人になった今、そんな理想からおよそ地球の半径ほども遠い生き方をしている。大人になると言うことに嫌悪を感じるのはそのせいかもしれない。バリバリなんて働ける技量がない上に、発達障害グレーゾーンを背負い、世間の当たり前なんて習わないとわからないし、朝だって起きれない。冗談はそのままの意味で受け取るし、考えて動くなんて人間にできたことじゃないと思っている。だいたい、郵便物も取れないし、電話にだって出れないような人間だ。中学生の自分が今の私を見たらガッカリするに違いない。やっぱり私はかわれないのだと。仕方がない、20歳になるなんて別に魔法じゃないのだから。そんなわけで、13歳の私が描いたライフプランは実行されないままになりそうだ。どうせ、予定は未定である。

それでも、好きな大人もいる

 大人になることは嫌な私だが、好きな大人は何人かいる。その人たちに、共通していることはみんな「子供っぽい」と言うことである。私の好きな大人の1人に、大学の教授が上がる。しかし、彼の生態は全く謎である。その教授の部屋にはロックがかかり、外からは中の様子が確認できない。すりガラスの窓のようなところには、黒い布がかけられており、いるのかいないのかすらわからない。月から金まで、たいてい被らないシャキッとしたスーツを着こなす細身の体。夏でも、長袖を涼しげに着こなし、鼻の下と顎には少し髭を伸ばしているが清潔感が全身から漂っている。私にとって憧れと言っても過言ではないほどの存在だが、彼の魅力はそのミステリアスさだけではない。全くもって、中身が「少年」なのである(一応言っておくと、彼は年齢で言うと40も半ばごろであると思う。いや、正確にはわからない)。ある時、学生たちを含め手持ち花火をしたことがあるが、「これ全部持って一気に火つけたいな」などと、同級生だったらお前バカじゃねぇので済む話だが、これが大の大人だから怖い。OBの先輩が「仕事をやめたい」と嘆けば喜んで、やめればいいと言うが、「長年連れ添った彼女と結婚がしたい」と相談すれば、やめておけと言う。道から外れたことをしようとすると大層喜んで酒を継いだ。変な人だ、自分のことを大人じゃないと言うし、計画なんて立てたことはないと言うし、頑張らないでくださいと言う。だから、私はこの人が大好きなのである。

 最近見た映画で、すごく印象に残っているものの一つに「ちひろさん」と言う映画がある。機会があれば、どこかでその感想も書きたいが、その主人公ちひろさんがまさしく自由奔放なのである。どこの時代にも生きていけそうで、どこにでもいそうで、逆に存在していなさそうな彼女にひどく惹かれたものだった。

 自由に生きたい。大人ってものは自由なものなのだとばっかり思っていた。まぁ、確かに自由なのかもしれない。

 ジャン=ポール=サルトルは言った。「自由の刑に処されている」と。まさにそうだ、何にでもなれると言うことは、自分で決定していかなければいけないということだ。人間はペーパーナイフではない。用途の決められた人間なんていない。だからこそ、決めなければいけない。決めなければいけないのに、、、。このまま、ずっとコンタクトを外した後みたいにぼんやり、引っかかって落ちなかったハンガーのように宙ぶらりんのまま、生きられないだろうか。

 でもまぁ、きっと自由に見える大人にもこうやってもがいた時期があって、必死の生きた時代があって、それで、自由に生きているように見えるだけだろう。だから、自分を見失わない程度に自由に生きてみることにしよう。
 
 気がついたら、3000文字近く書いていました。今日はここまで。それでは、また。いい夢見れますように。

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