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3.忘れてしまった記憶に会いたい

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」

第2話 「明るい神様」

【今回の登場人物】
  明神健太 白駒池居宅支援事業所のケアマネジャー
  葛城まや 明神が担当する認知症の利用者


記憶は、
 大切なその人が生きてきた宝物
 よい記憶もそうでない記憶も

     3.忘れてしまった記憶に会いたい

 「葛城さん、何を書こうと思ってたんですか? 」
 まやは少しだけ笑みを浮かべた。
 「日記。ずっと書いてるのに、書けなくなったの。ほら、こんなに一杯書いているのよ。」
 まやが振り返った棚にノートがぎっしりと詰まっていた。
 これまで何度もまやの家を訪問している明神だったが、プランを簡単に説明すると、ハンコをもらってすぐに帰ってしまうので、まやの家の中のことには関心が向いてなかったのだ。
 「え? それ全部日記ですか? 凄いっすね。子どもの頃から書いてるんですか? 」
 明神は初めて葛城まやの部屋にあるものに視点を当てたのだ。
 まやはそのノートを棚から10冊ほど抜き出して、机の上に置いた。
 「子どものころは書いていなかった。私が一人ぼっちになってから、だったかな? 」
 「それでも凄いですね。葛城さんハンコを… 」
 明神は書類を机に置いたが、まやの視点は置かれたノートの表紙の文字を見つめていた。
 「自分の字が、何と読むのかわからない… 目も悪くなったし… えっと、あなたお名前なんでしたっけ? 」
 「あ、明神です。明るいという字と、神様の神です。」
 明神はどうやって切り上げようかと考えていた。さっさとハンコ貰って帰りたかったのだ。
 「そう、明るい神様と書いて明神さん、素敵なお名前ね。」
 まやはそう言うと、日記に視点を再び向けた。
 「私の大切な日記… でも字がわからない。あなた読んでくださる? 」
 「え? いや人の日記を読むのはどうかと… それより… 」
  明神がハンコをと言おうとしたが、まやがすぐさま返答した。
 「読んで。私の代わりに。お願い! 」
 まやの強めの返事に、このままではなかなか気持ちがハンコに向かないと思い、明神は苛立ちを感じながらも、仕方なくまやの言葉に少しばかし付きあうことにした。
 「この後も訪問があるので、5分だけなら… 」
 明神は渋々応じた。そして一冊のノートを手に持った。
 「えっと、「一人ぼっちの私。この世に葛城まやという人がいたことを誰かに知ってほしい。だからこの日記は遠慮なく読んでください。」って表紙に書いてあります。あ、読んでもいいって書いてありました。」
 明神の言葉に、まやは少し笑顔を浮かべた。
 「あら、生意気なこと書いてあるのね。私の記憶が一杯詰まったノートなの。」
 しげしげとノートを見つめるまやの姿に、明神は事をどのように収めるか、考えあぐねた。
 「忘れてしまった記憶にもう一度会いたい… 」
 「え? 」
 明神には、まやの言葉の意味が分からなかった。
 「忘れてしまった記憶にもう一度会いたい… 」
 まやは同じ言葉を繰り返した。
 「あの~ 日記に書かれたことですか? 」
 「そう、そうなの。自分の人生がどんな人生だったのか知りたいの。」
 まやの表情が明るくなり、明神をしっかりと見つめた。
 「ねえ、日記を最初から読んでみて。私の人生を思い出させて。」
 まやは明神を見つめた。
 「え!? いやあのまだ仕事が… 」
 明神は想定外の成り行きに混乱した。しかしあまりにも真剣なまなざしで見つめてくるまやの姿に圧倒された。
 「そ、それじゃあ、さっきも言ったように5分だけね。僕も仕事があるので… 」
 「わかってる。少しでいいから… 」
 明神は仕方なく、少しだけ読んで切り上げようと思ったが疑念も生じた。
 「今更忘れた記憶に会う必要なんか意味があるのだろうか? 思い出したとしても、次の瞬間にはもう忘れてしまうのに。」
 と明神は思った。
 認知症の人に振り回されていると思いつつも、ハンコをもらって帰るためには仕方ないと明神は判断した。
 ノートには番号がふってあり、明神は①と記されたノートを引っ張り出した。
 どのノートにも表紙には異口同音に「私がこの世にいた証を知ってもらうために、この日記を読んでほしい」旨の文章が書いてあった。


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