30.松本城にて
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第1話「彼方の記憶」松本編
【今回の登場人物】
立山麻里 白駒池居宅の管理者
想井遣造 居酒屋とまりぎの客 麻里の相談相手
薬師太郎 認知症の人 故郷が松本
薬師淳子 太郎の娘 旅行会社勤務
遥かなる槍ヶ岳
その山頂からは、松本城がどのように見えるのだろうか
30.松本城にて
特急あずさは松本駅に滑り込んだ。
薬師太郎、薬師淳子、想井遣造、立山麻里があずさからホームに降り立った。
入浴やトイレで男性が必要ということ、山や松本市付近に詳しく、人当たりが良いということで、麻里は想井にボランティアをお願いした。
想井は快く休日を確保してくれた。
妻の通子は、たまには数日解放されたいと淳子に話し、淳子も父太郎の帰郷は母通子の休養日にしようと考えていたので通子は同伴しなかった。
立山麻里は担当ケアマネジャーである徳沢明香に声を掛けたが、プライベートまで利用者の生活に関わりたくないとのことだった。
当然の返事であり、麻里は、それ自体はそれでいいと思ったが、ボランティアを想井に頼んでおいて、3人で行ってもらうことには気が引けた。
想井に全部丸投げするような感じがしたからだ。
麻里は取れていない休みもあり、この際旅行を兼ねて自費で自分も一緒に行くことにした。
麻里の潜在意識の中に、想井遣造のことをもっと知りたいという感覚もそうさせたのかもしれなかった。
薬師淳子にしても、面識のない想井だけと行くよりも、麻里がついて来てくれる方が心強かった。
とにかく4人の旅は始まっていた。
列車や宿の手配は淳子にとってはお手の物だった。
一行は最初に松本城に向かった。
太郎が何度も見つめていた写真の城だ。
天気は快晴で残雪残る北アルプスの山々も見えていた。
太郎は松本駅に降り立った時から興奮気味だった。
想井とは特急の中で打ち解けていた。
山の自慢話を何度もする太郎だったが、想井は辛抱強く、それでいて楽しく聞いていた。
松本市内を歩いて回る時も、「ここは随分変わった、こんなものはなかった、ここはいいところだ… 」等々、太郎は想井に向かって一生懸命喋っていた。
淳子と麻里はその後ろをまるで太郎に忘れられたかのようについて歩いていた。
大手道に入ってすぐ、松本城のその黒い雄姿が目に飛び込んできた。
戦国時代、石川数正、康長親子によって作られた、世界遺産登録を申請予定されている名城だ。
「松本城だ! やっぱり日本一の城だなぁ~! 」
太郎は興奮して言った。
「日本一の城は姫路城だろ。」と、淳子は思ったが口には出さなかった。 麻里は初めて見る城だった。
黒く壮観でありながら、優雅さも感じられる、心にやさしい城だと思った。手前の堀の水面に映る天守閣共々映える城だと思った。
そして天守閣の向こうには、まだ雪が残る山々の姿を見ることができた。 麻里が太郎の家で見た写真と同じ光景がそこに広がっていた。
「通子、天守に登ろう! 今日は槍ヶ岳が見えるぞ! 」
太郎はまるで子供のようなはしゃぎっぷりだった。
「淳子だって。通子はお留守番。」
淳子はぼやいたが、太郎は意を介さなかった。
実は天守閣に登らずとも、堀端から常念岳の肩に僅かに顔を出した槍の穂先が見えるのだが、やはり天守から見る方が槍ヶ岳がはっきりとわかるのだ。
勝手知ったる城、山やの太郎はすいすいと天守閣最上部に向かって登っていった。
想井はその後を、時々頭を柱にぶつけながら追いかけた。その後を淳子が続く。
麻里は途中の階層にも興味があったが、3人がどんどん登っていくのでその後を息を切らせながら追いかけて登った。
そして、天守閣の最上部に来た。
太郎は槍ヶ岳が見える方向の小窓を覗いた。
「見えた! 」
太郎が嬉しそうに叫んだ。
「ああ、見えますね。槍だ。」
想井が続き、麻里がその次に覗いた。
「あの山々が北アルプス。ピラミッド型の山は常念岳って言うんだけど、その左側にちょこんととんがって見えているのが槍ヶ岳の山頂なんや。」
想井が麻里に説明した。二人はくっつくように小窓から同じ景色を眺めていた。
「これが北アルプスなんですか? 雪をかぶってきれい! そしてあの小さなとんがりが槍ヶ岳なんですね! 」
麻里はその景色に感動していた。
その時太郎が後ろから呟いた。
「ここから槍ヶ岳が見えるということは、槍ヶ岳から松本城が見えるはずなんだ。何度か登ったが雲がかかっててみることが出来なかった。今日のような天気ならなぁ… う~ん槍ヶ岳からこの城を見てみたい。」
その太郎の言葉に、後ろで醒めた目で見ていた淳子の表情が険しくなった。
淳子は子どもの頃に太郎に連れられてこの城には登っていたので特に感慨はなかったが、槍ヶ岳山頂から松本城を見てみたいという太郎の言葉は、淳子にとって引いてしまう言葉だった。
「お父さん、いくら山登りやってたと言っても、最近はちっとも運動していないでしょ? 歳も歳だし、それは無理! 」
その淳子の言葉に、登山家としてのプライドが傷つけられたのか、太郎はむっとした顔で淳子を睨んだ。
「俺は… どれだけ山を登ってたと思ってるんや。槍の一つや二つ、まだまだ登れるぞ! 」
太郎は淳子を睨みつけた。
一瞬親子に険悪な空気が流れたが、想井が割って入った。
「まぁ、それはともかく、薬師さん今日はありがとうございます。ここから槍ヶ岳を見せてもらってめっちゃ嬉しいですわ。」
想井のその言葉に太郎はにんまりと笑った。
「そうか、そりゃよかった! 山も城も最高なのが、俺が生まれたところなんだ。」
太郎はそう言うと、感慨深くまた山を眺めた。