2024 5/28 地獄の再現を強いていないだろうか

日記です。最近好きなアーティストが亡くなってしまって、ぼんやり悲しい日々が続いている。曲を聴く頻度もそんなに高くなかったのでファンを名乗るのもおこがましいけれど、にわかなりに好きな曲もあった。ご冥福をお祈りしたい。


ファンはアーティストに対し、地獄の再現を望んでいる。
たとえば失恋や死別、将来の不安、人間関係、会社や学校への拒否、社会全体への憂鬱。そういった種々の絶望を、仰々しい言い方を避ければ、それらの個人的な悲しみを、あらためて言語化し、それを音楽の中で乗り越えてくれと、我々はアーティストに対して求めつづけている。

ラブソングは素敵だ。希望に満ちた歌は勇気をくれる。しかし、愛や希望は言葉にしなくても生きていけるが、悲しみは言語化しなければ、簡単に理解できる形にしてしまわねば耐えられない。
何がいるかも分からぬ暗闇を背にしたままではぐっすり眠ることができないのだ。だからその暗闇を照らす役目を、アーティストに肩代わりしてもらっている。

歌詞に惹かれて好きになったアーティストほど、この人が悲しみについて歌ったらどうなるんだろうと考えてしまう。きっとこの人であれば、自分が過ごしたあの辛い時間に欲しかった言葉をくれるだろうと期待しながら。

それで言うと、星野源の書く歌詞が好きだ。「アイデア」の2番なんかもう痺れるくらい最高だ。
源は傷つけられたものへの共感を、ふつふつと沸くどうしようもない怒りや悲しみを、春風のような皮肉と手をぎゅっと握るような誠実さでもって表現してくれる。源、いつもありがとう。

別のバンドだと、amazarashiは暗い歌ばっかり歌っている。ファンが言うのもなんだが、ほんとに暗い歌ばっかりだ。しかし絶対に希望を捨てない歌だ。
不安や苦悩に答えが出ることはないのかもしれないけれど、それでも光を探すことを諦めはしない。泣きじゃくった後の脈の早さと、這いずって進む人間の強さを秋田ひろむは知っている。

しかし、ふと思ったのが、我々は彼らのようなアーティストに、悲しみを見つめ続けることを強いているのだろうか?ということだ。
アーティストは悲しみを言語化するとき、かつての悲しい出来事を思い出してまたそれを追体験するような過程を経るのだろうか。それこそ地獄を再現するように。

それこそが良い創作の糧だと言ってしまうのは簡単だが、誰だってそんな悲しい思いばかりしたくないはずだ。目を背けたいトラウマだってあるはずだ。我々の期待は、彼らに望まぬ地獄の再現を強いていないだろうか。

これは本当にふと思ったことで、たとえば冒頭の訃報について妙な勘ぐりをしたいとか、そういうことではない。アーティストみんなに健康で長生きしてほしいと言うのはそうだけど。

こと創作において、ファンはアーティストに際限の無い要求をすることができる。そして唯一それに応えることで、彼らは小さなキリストになることが許される。
実際私は彼らに何度も悲しみを代弁してもらって、その度に救われたような気持ちになってきた。それを否定したいわけじゃない。しかし、かといってアーティストに一緒に傷を負ってほしいわけでも決してない。

まあ、アーティストがやりたくてやっていることだといえばそれまでなのだけど。ファンがアーティストに返せるものなんて声援と金銭だけ。内面まで慮るようなことはしなくてもいいのかもしれない、しれないが、うむ。

うーん、考えてもあまり全部を解決する上手い答えが出てこない。まあいいか。文章に答えを出さなくていいのも日記の良さなので。

アーティストの健やかな生活を願いたい。一方的に。たくさんの良い曲をぼーっと聴きながら暮らしていたいので。それだけです。

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