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繊細な人が好き

今日、改めて感じたこと。
わたしが今仲良くしているお友達、夫も含めて、わりとみんな繊細なタイプの人間だ。そして私自身も。

今日、お仕事で、今までそんなにたくさん話したことがない子とたくさん話す機会があった。
と言っても、わたしは結構前からなんとなくその子に興味があった。
第一印象は、
「すごく繊細な子」
だった。

小さなことにとてもよく気がついたり、
人の顔色をよく伺っていたり、
そしていつも周りを優先してしまう

とても共感してしまうところがたくさんあるその子に
わたしはもっと話してみたいなと勝手に感じていた。

今日は、珍しくその子といろいろと会話する機会があって。

どんな会話の流れだったか、
急にその子が言い出した
「みんな仕事ができる人ばっかりで、だからいつも焦ってしまって…」と。

わたしはその子のことを、よく気がつくし自分の意見をしっかり持っていて、しっかり伝えることができる子だと思っていたから、そのように伝えたら、「自分ではそうは全く思っていなくて、いつも意見が言えないと思っている。だからそんなこと言ってもらえてとてもびっくりしている。」と。
逆にわたしは仕事ができると思われていて、でも「わたしはいつもテンパってしまっているんだよ」って伝えたりして。

誰にでも話せる内容ではない、正直な話をしてくれたことが、すごく嬉しかったと同時に、きっとその子もわたしに対して何かを感じてくれていたのかもしれない、と思った。

自分自身が人のことをよく分かってしまうところがあるから、きっと、同じように繊細なその子も、わたしのことをよく見通していて、「何か似たもの」を感じ取ってくれていて、正直に話しても良いという安心感があったのかもしれない。

その他にも、好きなことや好きなものについても話していたら、
やっぱりとても合う気がする。
そう感じてワクワクした。

1人で出かけることが好きだったり
なんだか広い世界を見てみたかったり
神社が好きだったり

共通することがいくつかあって、
もっと話してみたいと思える子が近くにいたことに、
今日は喜びの気持ちでいっぱいになった。

2人でたくさん話す機会があることは、
仕事上、滅多に、いや、ほとんどないのだけど、
今日、その機会が与えられたことは
「必然」だったと感じている。

なんでわたしは繊細な人が好きなのか?
について、少し考えてみた。

繊細であるが故にたくさんのことに気がついてしまい、
さらに日本の教育や文化背景にも助長され、
自己信頼が欠けてしまって生きづらさを感じている
そんな”繊細さん”がきっと日本にはたくさんいるのだと思う。

わたしもそうやって生きづらさを感じながら生きてきたうちの1人だけど、
「その気持ちに蓋や否定をせずに互いに言わなくても理解し合える」
そんなところに理解してもらえる嬉しさと、否定されない安心感を感じているのかもしれない。

でも、同時に、わたしは「繊細さ」に美しさを感じている。
表面的なことだけでなく本質的なものを理解できたり、
嘘か本当かが見抜けたり。

きっと、"繊細さん"って、「感じること」が大得意の人。
考えて理解するように教育されているから、頭で一生懸命考えることに慣れているけれど、でも本当は「感覚センサー」がとっても敏感だから、感じ取っている部分も大きくて。
だから、本当のことや、本質的なものがちゃんと理解できる美しさがある。

だけど、そこに"自己信頼"がないと、
"なんか違和感がある"とか、"空気が悪い"とか、いろいろ感じとっては疑って、感じとっては疲れて、感じとっては自分のせいにしてって疲弊してしまうのだなぁと今のわたしは感じている。
(ちなみにわたしはまさにそのタイプ)

でも少しずつ、少しずつ、
感じることを意識してみる
感じたことを疑わず信じる
筋トレのようにやっていると、身体の感覚的に全身から自分の美しさを感じる瞬間がある。決して疑えない、信じざるをえない、そんな瞬間がやってくる。そうやって絶賛自己信頼を育み中のわたし。

話がそれてしまったけれど、
それで、なぜわたしは繊細な人が好きなのか?について。
「感じること」からしか「本当の愛」は理解できないとわたしは思っているから、繊細な人は本当の愛になんだか敏感だったり、なんだか知っている気がして、だからわたしは繊細な人に惹かれるんだと思う。

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