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データの見方

最近少し興味深いものを見ました。

それは、ある事項について、自身の主張に添うように見えるデータグラフを掲げ、そのグラフを根拠に自身の主張を正当化しようとする方の記事でした。なるほどそのグラフだけからはその方の主張はあたかも正しいように見えました。気になったのは、そのグラフにはそのデータを付加的に説明する情報が全くなかったことでした。

一般的に、観測や実験の結果は様々な要素が含まれています。例えば部屋の温度を1ヶ月に渡って測定したデータを想像しましょう。一日ごとの部屋の温度がグラフ化されていて、一日毎の測定結果が折れ線グラフのように結び付けられているグラフです。

そんなグラフを見ると、その温度変化の測定結果がもっともらしく、特に疑問を差し挟む余地がないように思えます。しかし、こうしたグラフの背後には様々な重要な情報が隠されています。例えば、

測定した時刻はいつか。すべての測定は毎日同時刻に行われたのか。

その温度計の正確さはいかほどか。例えば、全く同じ温度条件を設定して10回測定を繰り返した際、その温度の測定結果のばらつきはいかほどか。

測定者はいつも同一人物だったのか。測定結果は、使用する温度計に依存するのか・しないのか。換言すれば、期待される系統誤差はいかほどか。

などです。

測定したデータ(数字)をそのままグラフ(絵)に書き換えることは比較的簡単なのですが、その背後にある様々な測定条件こそがデータの解析・解釈には重要です。何らかの測定を行うにも準備が必要で、それ自身大変難しいものですが、測定結果を解析し解釈することも同様に重要です。そのためにはその背後にある測定条件を精査した上で議論をしなければなりません。

解析や解釈のないデータは、まるで風景のようで、人によって見方が変わってしまいます。その背後にある条件などを考慮し、精緻な解析や解釈を行うことで、初めて自身の主張について論述できるのです。情報の欠落したデータだけを見せて「だから私は正しい」というのは些か乱暴な議論であるように僕には思えます。

一般に、科学的データの解釈は解析には特殊な技術や知識が必要です。すべての人がそうした特殊な技術に明るいということは難しい。それゆえ、研究者には自身の特殊な技術により導出した結果を、分かりやすく他者に伝える努力が求められます。知識や叡智は万人の前につまびらかにされるべきものだからです。

本当にその解釈は科学的に妥当なのか。研究者は常に徹底して全ての事項に対して懐疑的であるべきだと思います。そうした懐疑的姿勢と相互批評の背景が、現代科学をより良い方向に導いていると僕は考えています。

懐疑的姿勢や精緻な考察のない乱暴な議論による結果は、押し並べて乱暴であることが多いよう思います。例えば、問題の解決が求められる事項であれば、乱暴な議論による乱暴な結論からは、何ら具体的な対策案を導出できない、といった具合です。

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