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父はどうして、はたらくんだろう?

「お父さんさ、いま仕事休んでるねん」

会社からの帰り道、母から唐突に明かされた事実に思わず足が止まる。

2016年、会社勤めをはじめて2年目の春。はたらくとはどういうものなのか、ぼんやりとではあるけれどだんだん肌感覚としてわかってきた頃だった。そんなとき法事で久しぶりに帰省することになり、予定を調整していた電話で聞かされた、思いもしない父の現状。

受話器の向こうで押し黙る母に、何があったのかと尋ねた。

「ちょっと精神的にな。昔から薬飲んでてんけどさ、最近は布団から出れへんみたいやわ」



父の勤め先は、車の部品を作る製造会社だ。どういう会社なのか何度か聞いたが、文系で、車に疎いぼくにとっては、ベアリングがどうとかいう話はうまく理解できなかった。

父はその会社で、総務人事の担当をしている。勤務中の父の姿は見たことがないが、一度だけ職場に行ったことがある。日曜日、ジャスコへ行った帰りに「ちょっと会社寄るわ」と言った父の後ろをついて、デスクを見せてもらった。一部だけ明かりのついた、薄暗い部屋。小学生のぼくにとって誰もいない職員室みたいでこわかった。その無機質な事務所に、慣れた足取りで臆せず入っていく父の後ろ姿は、いつもと少し雰囲気がちがって見えた。



高校生の頃、父は会社で「役員」になった。

当時のぼくは、部長になるのも役員になるのも似たようなもんだと思っていた。でも母が「お父さん、役員になったんやで」と誇らしげに言う姿を見て、かなり立派なことなんだと察した。

塾から帰る車中で、後部座席で片耳だけイヤフォンを着けて音楽を聴いていたぼくに、父がぼそりとつぶやいたことがある。

「役員になるのがひとつの夢やってん。」

この瞬間のことは、今でもはっきりと覚えている。あまり自分を語らない父から「夢」なんて言葉が出てきた意外さと、運転する背中越しにさらりと語るその姿に魅せられて、ぼくは上手く言葉を返せなかった。



そんな父が、仕事を休んでいる。

ぼくたち子どもが知らないところで、父はずっと闘ってきたらしい。精神的にも強いわけではなく、ずっと薬を飲んでいた。そして最近は、出勤日になると気怠くなり、ベッドから起きられない朝が増えている。そして朝だけじゃなく、夜、自室で眠るのも困難になっている。毎日わざわざ居間に布団を移動させることで、やっと眠りにつけている。

受話器越し、今までまったく知らなかった話を、母が淡々と語っていく。驚くぼくとはちがい、母の口調に焦燥感はなく、これまでずっと支えてきた印象がある。夫婦の絆みたいなものを感じた一方で、長男としては不安が募る。

体調は?
生活は大丈夫?
俺らに何ができる?
これからどうするん?

母は「お母さんも働いているし生活は大丈夫」と言う。「それにお父さんも、週に何回かは会社行ってるし」と。


***

それから6年が経った今年。
母と電話をしているとき、「ちょっと待ってな、お父さんにかわるから」と、急に父へとスマホが渡された。

「おうもしもし、元気にしてるか?」
「うん元気やでー」
「そうかそうか。あんな、急やねんけど、3月で退職することにしたわ」

母から父の状態を知らされて以降も、父は会社へ行ったり行けなくなったりを繰り返しながら、なんとか辞めることなく続けていた。

そんな父が退職する。40年近く勤めた会社を退職する。体調もそうだけど、還暦を迎えたことが関係しているんだろうなと推測する。

父の状態については、母と相談してなんにも聞いていないことになっている。驚いたリアクションをした方が良いんだろうか。それとも労いの言葉をかけるべきなんだろうか。そんなふうに迷っているうちに、父が続けて言った。

「ほんで春から別の会社ではたらくわ」


え、え、え!

別の会社ではたらくん!?

体調は!?ってか、定年退職じゃないの!?

慌てるぼくの声を聞いて、父がガハハと笑う。目を細くし、口を開けて笑う父の顔が頭に浮かぶ。

仕事を辞めたら生活できない、というわけではないはずだ。母はまだ働いている。ぼくたち3人の子どもはみんな家を出て、それぞれに生活している。受験なんかでお金がかかるわけじゃない。築100年近い田舎の一軒家にかかるローンもない。定年の考え方は会社ごとに違うけど、もう別に働かんくていいんじゃないの?趣味の時間とか、ゆっくり過ごしてもいいんじゃないの?


やんわりと、どうしてまたはたらくのか聞いてみた。

「なんやろなぁ。もうお父さんも還暦過ぎたし、のんびりしてもええんやろけどさ。でもはたらいてる方が、なんかええねん。仕事のときもやけど、休みの日にゲームしてるときとかも。それに次は、前みたいに週5で会社行くってわけじゃないしな。そういや『ホライゾンゼロドーン』の新作買ったか?あれおもろいぞ。PS5まだ持ってないけどPS4でやれたし、画質も悪くなかったで。」

く、このゲーマーめ、子の心配も知らずにのんきに趣味話で盛り上がりやがって……

***

今、ぼくが勤めているホテル業界の業況は、非常に厳しい。ネットで見た業界別の成長率ランキングでは、190業界中の184位。ワースト10には旅行、空港、ブライダルと、ホテルにも深く関わる業界が並んでいる。

もともと決して高くない給与水準。さらに経費削減のため、残業は原則禁止になった。雇用調整助成金の特例措置を受けて、会社から自宅待機を指示される。仕事に行かない日が増えて、家で考える時間が増える。同期が辞め、後輩が辞める。職場で「今日で最後なんです」、「実は報告があって」と声をかけられるたび、胸が苦しくなる。

ここ数年、まだお昼なのに、深夜3時のように閑散としたロビーを見ているうちに、ぼくはよくわからなくなっていた。

何のためにはたらいてるの?
やりがいはなに?
ホテル業界でいいの?
ほんとにこのままでいいの?

でも、父の言葉を聞いて、少しだけ心が軽くなった。父がどうしてまたはたらきたいと思うのか、少しだけわかった気がする。

父もぼくも、好きなんだと思う。
はたらくことが。


車の部品でも、ホテルでも、アルバイトでも、正社員でもいい。肩書きとか、影響力があるかどうかじゃない。世界を動かすような大きなことをしていなくたっていい。上司からの信頼、お客様からのありがとう、同僚と交わす「おつかれー!」の乾杯。そういった身近なところで感じる小さな達成感の積み重ねが、はたらくよろこびになっているんだと思う。そしてそのよろこびは、日々の生活に充実感を与えてくれるんだと思う。

はたらくことにはきっと、複雑な魅力があるんだ。

ぼくが生まれる前から勤めてきた会社を辞めて、新しい職場で再びはたらく父。無理しないでねとか、家のことで手伝うことある?とか、いろいろ話したいことはあるんだけど、ひとつだけ。

ホライゾンゼロドーン、もちろん買ったよ。


前作はDLCまでやった神ゲーやもん。仕事休みの日にちょくちょく進めてるよ。また今度そっちに帰ったときは、おすすめのレジェンド装備でも教えてよ。



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