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黄昏名店録

 その店は、夜しかやっていない。
 それも毎日のことではなく、週末だったり、火曜だったり水曜だったりする。お盆のときに開いていたかと思えば、月中の三連休のときには休みだったりする。つまり、いつ開いているのか全く読めないのである。
 そんなことでは客はつくまい、そう思われるかもしれないが、これが結構繁盛している。
 店を切り盛りしているのは中国人と思しき男性で、しかし一度も口をきいているのを見たことがないので詳しいことはわからない。
 おそらくその男が店の主で、厨房で忙しく立ち働いている。
 その周囲を彩るのがふたりの少女で、どちらとも恐ろしく愛らしい。
 ひとりがファ、もうひとりがラァ、と客たちには呼ばれるが、本名ではないだろう。小鳥のように仲睦まじくさえずりながら、少女らはテーブルの谷間を行き交った。
 主の男はふたりを可愛がっているようである。言葉こそ交わさないが、ふいに見せるまなざしがこまやかな愛情に満ちている。
 そんな男が供し、少女らが給仕する料理は、思いのほか美味しかった。
 仕事の疲労が溜まってくると、私は常にこの店の周りをうろついた。
 いつ開いているかわからないこの店を目当てに路地をうろつく私のような人間は案外多く、店の前まで歩み、その灯が消えていることを知ると悄然と肩を落として去ってゆく……そんな背中をいったい何度見たことか。
 もちろん、その背中のひとつに私のそれも含まれている。
 疲れ果て、地の果てを目指し彷徨する人間に、この店は愛されている。

 ある日、店に入ると、ささやかな一悶着の最中であった。
 入口の奥のレジ台で、困ったように眉根を寄せるラァの姿がまず初めに見えた。
 ラァの対面にはひとりの体躯のよい男がおり、どうやらそいつが何やら難癖をつけているようだ。独語のようにぼそぼそと言葉を落とすので、何を言っているのかまではわからない。
 客席はほとんど埋まっており、主は調理にかかりきりのようだ。ラァのことを気にかけながらも、中華鍋から手が離せない、そんなふうに見えた。
「……ひとりね。今日、モツある?」
 言わずもがなのことを告げ、ついでに好物についても聞いておく。
 ある程度まともな奴ならば、ここで諦めて帰ってゆくだろう、それを見込んでのことだったが、あいにくまともな奴ではなさそうだ。
 背を向けていたレジ前の男はじろりと私を見返し、底意地の悪そうな目を光らせた。
 いつもの私ならここらへんですみやかに退場するのだが、しかし今日は眼前に困り果てたラァがいる。捨て置くわけにもいかず、とりあえず私は言葉をついだ。
「何か?」
 男は猪首をますます縮め、あきらかに威嚇の顔つきである。
 私も実のところ少しは腕に覚えがあり、だからこそ普段からこういう諍いには触れないようにしているのだが、しかしその自信はそこはかとなく相手を威圧するようで、男の威嚇はもはや狂犬のごとし、首輪なんぞ自ら投げ出し噛みつきに来る――
「わあ」
 眼前に振り上げられた拳に、わざとらしく歓声を上げてやると、たちまちにして火がついた。
「……ゃろっ」
 ヤニとアルコールで混濁した双眸が粗悪な怒りに染まり、ああ、だめだ悪い癖が出てしまいそう、にやにやと私は顔面をゆるめ、一瞬後には渦中にいるだろう暴力の悦楽に思いを馳せ、男の胸ぐらをつかむ。
「お客様、困ります」
 そのとき、流麗な日本語がレジ奥から飛び、同時にすらりと長い腕が男の猪首をさらっていった。
「え」
 驚いて見る先には、菜箸片手の主がいる。
 軽々と男の体を持ち上げて、その体幹はぴくりとも揺らがない。初めて聞いた主の声は存外低く、しかしそれ以上に日本語の確かさに私は目をみはった。
 主の片腕にぶらさがる男がしかしこの場でもっとも驚いており、ぱくぱくと口を開閉させるさまはあたかも水中の魚のよう、滑稽さに私は肩を震わせた。
 結局男はそのまま店を去ることとなり、顛末を見届けた店内の客たちも潮が引くように席を立った。
 私だけ、訳のわからぬ空気の中に取り残されることとなり、その困惑をよそに、ラァが注文をとりにきた。
「シマさん、今日、何する?」
「……モツ」
「ん。お酒は? どする?」
 ちらちらと厨房の主をうかがいながら、ラァは散漫に注文をとってゆく。自然私のまなざしも厨房の主のそばをゆききして、そのうちにラァがささやいた。
「ツァイ、今日ごきげん」
「ツァイ?」
「ん。今日、ファがお金持って帰ってくる」
 遅ればせながらファの姿がないことを確認し、同時に店の主の名がツァイであることを私は知った。
「日本人?」
「ツァイは……」
「ラァ」
 きりと冷えた声音が話中に投じられ、私は厨房にまなざしを向けた。
「あんた、日本人だったのか」
 私の言葉には返さず、
「ラァ。無駄話はするな」
「はぁい」
 それからは実におとなしく注文をききとり、ラァは厨房へ駆けていった。
 私は料理の到着を待ちながら、ぼんやりと紫煙をくゆらす。
 昨今の禁煙分煙のブームにも負けず、この店ではいつもおびただしいばかりの煙が漂っている。それが私たちくたびれた男たちの慰めになっているのだろう……この店では、くたびれた背広の男しか見ない。
 じゃっじゃっじゅう……
 手際のよい調理の音が厨房からあふれ、狭い店を満たしている。
 四囲のテーブルに残された先客たちの食べ残し、皿、汗をかいたビールのジョッキ……そんなものを眺めながら、私は先ほどのラァの言葉について吟味した。
 ファが金を持って帰ってくる――それはいったいどういう意味だろうか。
 あと数年もすれば華やかに開くことが約束されたまだ幼い少女が、つぼみのままで出来ること――
 疲労のせいか、いかがわしい想像しかできず、そんな自分につくづく嫌気がさしてしまう。煙草の箱に手を伸ばせば、さえぎるように眼前を皿がすべった。
 湯気立てるモツ煮込みと、豚の老酒煮、ここ何日も私の夢想してやまなかった好物たちを載せた皿。
 見上げると、店の主――ツァイがいる。
「ラァは?」
 思わず聞くと、
「迎えだ。ファの」
 よどみなくそう答えた。
「ツァイさん、武術やってる? さっき凄かったね」
 涼しい双眸が質問を拒んで、そのかわり新たな話題を投げてよこした。
「……そっちこそ。怖い仕事をされてるんでしょう」
 唐突な敬語がかえって不躾で、またその言葉がひやりと私の胸を撫でたので、とっさに声が出なかった。
 武術を嗜む者の、他人の急所をとらえる術だけは真似ができない。腕に覚えがあるとは言え、しょせんは私はずぶの素人なのだった。
「事務職だよ、ただの」
 青い顔して金借りに来る人間を無表情でさばいてゆくだけの仕事である。
 おおむね残業もないし、時折気まぐれにボーナスも出る。金勘定さえできれば誰でも務まる気楽な仕事……それなのに、どうしてこうも疲弊するのか。
「……馬鹿だねぇ。搾取されている」
 冷めゆく皿を眺めながら、ツァイがつぶやく。お前に何が分かると凄む気力ももはやない。
「搾取してるのは俺の方だ」
「馬鹿だねぇ」
 繰り返して、テーブルを去るのかと思えば、向かいの椅子に腰かけた。
「さっさと食え。ラァとファが帰ってくるだろう」
 およそ客に対する態度とは思えぬこの男の襟首つかんで引き回すことなど容易だが、しかしその手のことは男のほうか上手だろう。それを分かっているから、このように余裕の底にいる。
 箸をつけると、当然ながら美味い。
 いまやこの店で食べるほか、浮世の娯楽を見いだせない。
 疲弊した身体に染み入る味が唯一、生々しく生の実感を差し出した。
「どうだ、美味いだろう」
 あたかも高みから見下ろしてくるツァイの言葉はもう無視して、私は無心に箸をはこんだ。
 ……かたん。
 皿の隅々まで蹂躙して、私の悦楽のときは終わる。
 ああ、なんと短いことか……ふたたび始まる無味乾燥な日々を思えば、もうすでにこの店が懐かしくなっている。
「重症だね」
 臨終を告げる医者の口調でツァイは言う。
 伏せられたまなざしに憐憫の影を読み取って、疲弊の底から熱い血潮がじわりと沸いた。
「……さっきから人のこと何だと思ってんだ」
 ごりごりの圧が喉を殺し、発する声音を低くする。
 私の気配が変わったことに気づきながらも、ツァイのようすに変わりはない。
 そこにきて初めて私は気づく。ああ、これは挑発されているのだと。
 ゆっくりと席を立ち、テーブルの上に載った皿をつまんだ。ぶらり、揺らすように泳がせて、そのまま放った。
 ツァイの顔面を狙ったはずの皿は不思議と軌道がそれ、後方のテーブルの角にあたって砕け散った。
 騒がしい音を聞いて、ツァイはそっと目を細め、実に嬉しそうな顔になった。
 じわりと椅子を離れ、立ち上がるさまは陽炎に似て頼りない。
 その芯を捉えきれずにいるうちに、じわり、腕が伸びて来、私のみぞおちを優しく撫ぜた。その一挙一動おそろしいほどに見透かせるのに、手も足も出ない。
 優しく撫ぜられたはずのみぞおちは猛烈な痛みとともに、内側から跳ねた。
「……ぐぅ」
 情けなく膝をつき、前にのめる。
 眼前に迫る椅子に、胃の中をぶちまけたい誘惑に駆られると、耳元でツァイがささやいた。
「吐くなよ」
 せりあがる胃をどうにか宥めようとしていると、がたがたと店の引き戸が鳴った。
「ツァイ! 帰ったよ」
「ツァイ! お金いっぱい」
 ラァとファの愛らしい声音が飛び交って、殺伐とした空気を一瞬でぬぐい去る。
 正体不明の意地悪さを含んでいたツァイの気配もふっとゆるんだ。
 その隙をついてうんぬん……などという高度なまねができればよいのだが、あいにくできなかった。腹を押さえて蹲る私の姿にファが気づき、駆けよった。
「シマさん! だいじょぶ? おなかいたい?」
 ふわりと香る茉莉花のよい匂いに、私は何故か安堵に包まれて、その場に胃の中身をすべてぶちまけていた。
 ひゃあだか、わあだか、ファの甲高い悲鳴が上がり、ラァの小刻みな足音も混じる。
 ツァイのあからさまなため息が頭上から降り落ち、その場は阿鼻叫喚、渦中の私だけがいやにすっと静まり返った。
「シマさん、だいじょぶ? だいじょぶね?」
 私の背中をさするファの背後から、ラァがタオルを差し出した。床に膝をついて、丁寧にぞうきんをかけはじめる。
 そんなファやラァの動きを、まるで劇場の舞台の上でも眺めるように視界におさめながら、熱くうねる胃の底から思考の澱が溶けてゆくのを感じていた。
 それは不思議な感覚だった。
 日々溜め込んで、積もり、重なり、互いに癒着し合いながら、溶岩のようにどろどろと重ったるく存在感を放っていたそれ――思考なのか鬱憤なのか、もう私ですら正体が分からなくなったそれが、恍惚にも似た光をはなちながらゆっくりと蒸散してゆくのだ。
 軽くなってゆく胃の腑に、動揺して、私は思わずつぶやいた。
「……何だ、これ」
「あんた食べ過ぎだからな。たまには出した方がいい」
 頭上より降ってきた言葉に頭を上げれば、ツァイがにやりと笑っている。底意地の悪そうな光を宿す双眸はやはりいけ好かず、しかし、
「これ、あんたがやったのか」
「あんた、溜め込みすぎなんだよ。さっきも、俺が出て行かなかったらやばかったろう」
 さっき、とは、あのレジ前での一幕のことだろうか。
 剣呑な猪首の男に、ややもすれば手を出そうとしたあの緊迫の瞬間……ほんの十年前までは毎日のように視界を彩った景色のひとつだ。馬鹿みたいに殴り合い、血反吐を吐き、駆けたり、転げたり、襟首をつかみ……
 ふいによみがえった過去の記憶のひとつひとつが生臭く、あざあざと生の実感に濡れている。
 比して、今の生活のなんと色褪せていることか。
 疲弊に塗り込められた日常に青息吐息、あとは死ぬのを待つばかり――
 馬鹿だねぇ、搾取されている。
 ツァイの言葉。
 数分前までは鼻息ひとつで散らせたはずの、何でもない言葉。それが、いまこうも胸に刺さる。
「シマさん! どした? 痛いか?」
 気がつけば頬を大粒の涙が濡らしており、驚いたファが背中をさする手をとめてしまった。
「いや、痛くない……」
 本当はもっとさすっていてほしい。人の温かさを感じるのは心地よい。
 思えど大の男がそのようなことを言う訳にもいかず、ファは困り、床でぞうきんをかけているラァがふと私を見上げこう言った。
「シマさん、疲れてるね。だから涙出る」
 ラァの真摯な瞳から目を離せず、かと思えば、かたわらに立つファがやさしく私の背を撫ぜた。
「シマさん、疲れてるか。そうか、疲れたか」
 じわじわと目尻を染める涙がうっとうしく、いい加減おさめてしまいたいのだが、どうにもなりそうにない。
 しばらく涙を出して、おおかた出し切ったと思えたころ、テーブルの上に小さな粥の茶碗がのった。
「これぐらいなら食えるだろ」
 ふわりと湯気を吐く粥はいかにも美味そうで、椀を差し出したツァイのほうを見れぬまま、私はひとくち箸をつけた。
 ……美味かった。
 熱く燃える嘔吐の残滓にいまだ胃はあえいでいたが、それでもこの粥はうけつけた。味は薄かったが、何ともいえぬ滋味に満ちていた。
 粥をすする私をテーブルのかたわらでファとラァが眺めている。
 いくぶん気恥ずかしかったが、ふたりの無垢なまなざしは食事の邪魔にはならなかった。ふたりで微笑みあい、やがて厨房の方へ去ってゆく。
 仕事を辞めよう、と何故その時そう思ったのか、整然な理路をもってして思い出せない。
 けれど、そう思った。
 すとんと、胃の腑に落ちていった。
「……おあいそ」
 レジでぼそりとつぶやくと、珍しく厨房からツァイが出てきた。
「いらないよ。全部、吐いたろ」
「粥食っただろ」
「あれはサービスに決まってるだろう。野暮だな」
 そんなやりとりが続いて、ふと思い出したように、ツァイが言った。
「そうそう、この店たたむから」
「え」
「今週いっぱいな。土曜で最後」
「なんで、いきなり」
「あんたも見ただろ。最近、金貸しが店まで来るんだよ。面倒なことになる前にさっさとね」
 何の未練もない口ぶりでそんなことを言う。
 猪首の男との悶着に、ツァイとの攻防、嘔吐に涙、一椀の粥、ファとラァの微笑、辞職の決意……今夜はいろいろなことがありすぎて、正直私の頭では処理できる範囲を軽く超えている。
 夢の中に迷い込んだかのような頭の重さで、それでも聞いた。
「……あんたたち、どこ行くの」
「さあ?」
 肩をすくめて、ツァイ。
 この男はどうしてこう飄々としているのだろう。
 今日初めて口をきくまで、ただの寡黙で実直な男だと思っていたのに。
 こんなに喋る男だとは思わなかったな、そう思いながら、私はいくらか未来の景色に思いを馳せている。
 どこかの町の片隅で、小さな店に灯がともる。
 そこでは中国人と思しき寡黙な男が中華鍋をふるって料理をつくり、ふたりの愛らしい少女がテーブルの谷間をゆききする。
 客はみんなくたびれた背広姿の男たちだ。
「せめて平日は毎日開けろよ。客ががっかりする」
「善処する」
 はなはだあやしい返事をしながら、とうとうツァイは金を受け取らなかった。
 ファとラァの楽しそうな笑い声が店の奥から聞こえてくる。
 旅立ちに備えてはやくも二人で荷造りでも始めたのかもしれない。年頃の少女たちのことだ、荷物は両手に余るほど膨れることだろう。
 微塵も悲壮感のない旅立ちに、私は狐につままれたような心持だ。
「じゃあ、また」
 言いながら、今日が最後になるのではないかとそう思った。
 なんせこの店はいつ開いているか分からない。
 それでも、私は明日もまたこの灯を求めて店の前をうろつくだろう。もう、背広は着ていないかもしれないのだが。

#眠れない夜に

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