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創作をする心構えについて② 長野の青木湖に行ったこと

 前回書いたやつを見返してみたら、怪しいセミナーっぽい人みたいになっちゃったな、と反省しました。伝えたい一心だったんですが、説明しすぎちゃったというか、必死過ぎる感じが出てしまった気がする。(※お金とるつもりないよ!)
 他の人のブログを見てる感じ、もっと気楽に書いてもよさそうだなと思ったのでそうします。


 前回は千葉雅也の「センスの哲学」をとりあげましたが、私はどちらかと言うと、柳宗義とかの東洋思想っぽい「日常の美学」のほうが好きなので、そういう観点からこの本を読み解くとこんな感じになるんじゃないかな、という感じで書きました。フランス現代思想は二項対立から生じる葛藤のなかで、それでも自分を保っていようみたいなきらいがあって、ドゥルーズやデリダ、メイヤス―を半年間ほど勉強してましたが、どうも、精神衛生上良くなくて辞めました(あと、よくわかんないし)。

 さて、「ピアノを弾くことと旅をすることはとても似ている」という話をしようと思います。いったい何を言っているんでしょうか。

 ほぼ毎日ピアノに向かっていると、「今日はあまり気分じゃないな」という日が必ずあって、そういう日は何か弾こうとしても全くうまく弾けないということがあります。昨日まであんなにうまく弾けてたのに、翌日になってみたら全く弾けないなんてこともざらにある。ピアノじゃなくても、読書をしている時でも起こるし、「何か今日は気分じゃないな」っていう感覚は誰しもあると思います。
 同じような話で、受験勉強をしてた時とか、「毎日何時間必ずやる」って決めてたんですけど、気分が乗らない日は本当にできない。おもしろいくらい集中できない。
 当時は、「それでも、やらなければ!」と真面目精神を発揮してがんばってたんですが、これも、今思い返すと本当に精神衛生上良くなかった。
 あの時は、自分のうちから出てくる心の声を無理やり押し殺してることに他ならなかった。継続は力なりとはよく言いますが、そんなことを毎日続けてたら、いつからか自分の心の声が聞こえにくくなってしまいました。
 でも、自分にとってピアノを弾くことは、心の声に耳を澄ませることなんです。今日は乗り気じゃないなって時は1分弾いて辞める(笑)。でも、たまにすごく乗り気なときもある。そういう時は自分でも驚くくらい、きれいな音が自然と出てくる。
 一瞬の感覚に身を任せること。ピアノを媒介にこれができるってわかってから、ピアノに対する姿勢が変わりました。高校生までは、「耳コピをしていかに上手にJPOPを弾くか」という闘いをしていましたが、むしろ、ピアノに関わっていない時間に、どういう風にモノを感じているか、ということに重点を置くようになった。自分はどういうときに、どういう感じ方をするんだろうか。そういう、自分の心の声に耳を澄ませる経験を積み上げる。それは、ピアノに触れずしてピアノを弾いているようなものだと感じます。

 さて、旅をするときに一番重要だと思うのは、このような自分の心の声を聴くことだと思います。旅というのは、自分の想像してたモノと違うということが多いです。でも、自分の心の声に敏感だとそういうイレギュラーを逆手にとって楽しむ、ということができると思います。ここの小道が気になるから入ってみようとか、全然知らないお店だったけど、たまたま入ったらめっちゃ美味しかったとか。
 完全に計画通りでってなっちゃうと、なんだか仕事をしているような気分になる。そういう時こそ、自分の心の声を聴いてみてもいいんじゃないでしょうか。なんだか乗り気じゃなかったら、行かなくていいし。ちょっとしたイレギュラーがあっていい。

 私はこの考え方を大事にしたくて、それをピアノでもやってきました。今の自分はどういう音が好きなんだろう、この展開のあとはこういう感じがいい、ミスタッチだったけど意外といい感じになったな、とかを考えながら弾いていると、既存の楽曲を弾いていたのに、アレンジを効かせすぎてどんどん別の曲になっていっちゃう(笑)。そのなれの果てが、即興演奏です。

 冒頭の写真は、長野県の大町市北部にある青木湖。

湖岸沿いの道
夕焼け
朝方五時くらい
びっくりするくらいの青緑色

 帰りに、松本駅のストリートピアノを弾いて帰りました。

 最終的に何が言いたいのかよくわからなくなったんですが、まあこれはこれでよし。


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