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Vol.1 福島県へ入り被災の実態に触れる

はじめに

こんにちは。多文化社会学部のmomoです。今回は私が夏休みを利用して参加した「地域から学ぶ復興学セミナー」について、5回に分けてレポートします。

「地域から学ぶ復興学セミナー」は、長崎大学福島未来創造支援研究センターが主催し、福島の復興の現状や被ばく医療について学ぶことを目的として毎年開催されているセミナーです。今年は9月8日〜9月11日までの4日間、福島県の浜通りの市町村を巡って開催されました。参加者は、私を含めて長崎大学の多文化社会学部7名、経済学部7名、保健学科5名。さらに、福島県にある東日本国際大学、いわき短期大学の学生などが参加しました。

道の駅なみえにて 浪江町のキャラクター「うけどん」と一緒に。

同セミナーは、様々なプログラムで構成されていました。東日本大震災・原子力災害伝承館や、震災遺構、中間貯蔵施設など東日本大震災や原発に関する場所の見学。さらに、福島在住の被災者の方々からのお話を聞く場や、他大学の参加者とのグループディスカッションも組まれていました。

また、長崎に戻ってきてからの事後学習会では、予定になかった環境省の万福裕造先生によるワークショップに参加できるという幸運に恵まれました。万福先生は福島県飯舘村で除染や復興の業務に携わっておられる方です。グループワークを通じて、福島が直面している中間貯蔵施設の除去土壌の課題について身近に考える機会をいただき、リサーチ力と合意形成能力の大切さを実感することが出来ました。このことについては、第5回のレポートで詳しくお話ししたいと思います。

車内から撮影した富岡町

セミナーへの参加理由

本題に入る前に、セミナーに参加したいと思ったきっかけについて話しますね。東日本大震災が起きたとき、私は小学校1年生でした。テレビをつけたら、どのチャンネルでも、建物や車を飲み込む津波の映像や地震の震度が示された地図ばかりが流れていました。通常のテレビ番組はもちろん、CMも一切なくなり、日本中が衝撃を受けていることが伝わってきました。関東に祖父母が住んでいたので、彼らのことが心配で仕事中の母に電話をかけたのを今でも覚えています。しかし、当時は、まだ幼かったため、何が起きたのかを理解するのは難しく、大きな地震と津波があって、福島第一原発で事故があったということもぼんやりとしかわかりませんでした。だからこそ、大学生になった今、何があったのかについて学び直したい、現地を訪れたい、福島県とどう向き合うことができるのか考えたい、と心から思ったのです。

バリケードはないものの、看板は残されたままの道

はじめての福島。震災から13年後のまち

9月8日朝、長崎空港から羽田空港へ飛び、東京駅から東北新幹線で郡山駅まで1時間20分ほど。そこからさらにバスで2時間半。双葉町へ向かいます。郡山市を抜けると緑が多くなり、スマートフォンの接続が圏外になることもあるようなかなりの山道。双葉郡に近づくにつれて、バリケードで封鎖されている道や草が生え放題の道、震災当時からそのままになっている建物を目にしました。それらの建物の中でも特に印象的だったのは、商店です。遠くから看板だけを見ると今も営業中のようにしか見えませんでした。それらを見るたびに、ここに生活していた多くの人々がいたのに、今では人の暮らしがまったくなくなってしまったことが感じられ、胸がきゅっとなるようでした。

東日本大震災・原子力災害伝承館

震災当時、福島で何が起こっていたのか、展示物から学ぶ 東日本大震災・原子力災害伝承館

展示写真。東日本大震災以前は看板でも原子力発電の標語が掲示されていた。
震災前の原子力ポスターコンクール入賞作品の展示

バスで双葉郡双葉町に到着し、最初に訪れたのは東日本大震災・原子力災害伝承館。福島の震災と原発事故の前後についての説明を聞き、映像、展示物を見ました。原発事故以前、地域の人たちは雇用や生活を支える存在として原発を捉え、多くの人がその安全性に疑いを持っていなかった印象を受けました。なぜなら、原子力の日のイベントに合わせて当時の小・中学生、高校生が描いたポスターの入選作品には「明るい未来」や「CO2を出さない」といったポジティブな面が目立っていたからです。私は事故が起きた後に、原子力発電について学びました。そのため、原発にはポスターに描かれている良い面だけではなく、負の側面もあるということを知っています。事故が起きてしまったときに、放射線が及ぼす影響は人にはもちろん、環境に対しても深刻です。だからこそ、クリーンな一面ばかりに光が当てられていた当時の状況を目にし、少し怖くなりました。物事を多角的に見るということの重要性を改めて実感しました。

地震で大きく変形した側溝の蓋
基礎ごと流されたポスト
救護活動の様子

地震で変形した側溝の蓋、基礎ごと流されたポストといった実物の展示は、地震と津波の凄まじさを如実に物語っていました。被災者の救護活動を記した模造紙の展示から、当時の緊迫した状況や、今までにない複合災害への対応の難しさが伝わってきました。災害時にどう対応するのか、冷静な判断が難しくなるからこそ、平時から災害が起きた時の避難経路や対応について、確認をしておくことの重要性を学びました。その上でマニュアル通りではいけないこともあると考えられるため、臨機応変な対応も求められると気づきました。

復興のまち 富岡町に泊まる

1日目のホテルでの夕食

伝承館を訪れた後は、バスで富岡町のホテルへ移動しました。富岡町の家々やホテル、さくらモールと呼ばれる商業施設はどれも新しく、人々の暮らしが戻ってきた震災“後”の町の様子であるということが自然と伝わってきました。夕食後には、部屋に戻ってこの日訪れた伝承館の見学の振り返りを行いました。震災の実情について学んだことを整理し、自分自身が感じたことをノートに書き連ねました。

原発について、震災前の住民は、その存在をポジティブに捉えていたような印象を受けたこと。ポスターや標語など、情報発信の役割を果たすものの影響力の強さについても実感しました。また、情報を受け取る側もそれを鵜吞みにするのではなく、疑ったり、異なる角度から捉え直してみたりすることが重要であるとも気付かされました。

次回、盛りだくさんな2日目。実際に見て、感じて学んできました。お楽しみに!


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