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「新しいこと」と「共感されること」の関係性について考えてみた


本文のサマリー

・共感されるかどうかは、周囲の「想像力の問題」
・否定しているのではなく”心配しているだけ”
・共感される未来は、「共感されない新たな一歩」から始まる
・共感は「手段」であって「目的」じゃない
・本当にその未来にワクワクするなら、共感なんて気にせず突き進め!

新しいことは共感されないのか?という疑問

最近よく、「共感」というキーワードを耳にします。
サービスや商品、インフルエンサー、企業の採用まで、共感されることで
サービスや企業価値が広がっていく、という考え方です。

私自身も、最近Twitterを始めて、共感によってフォロワーやリツイートが
増えるのを目の当りにし、その重要性を痛感しています。

でも、一方で、何か新しいことをするときには、必ずしもそれが共感されるとは限りません。

むしろ新しい価値があることのほうが、その奇抜性ゆえに受け入れられず、否定されることもあると思うんです。

じゃあ、新しい価値を追求したら共感されず、逆に、共感されるものは、新しさに欠けるものなのか?ということを、ふと考えてみたんです。


共感されるかは周囲の「想像力の問題」

私は、何か価値のある新しいものが、周囲の共感を得られないとき

”それ自体が共感されないものだ”といわけではないと思うんです。

単純に、その人がイメージする新しい世界やサービスを、周囲の人たちが、

”その人と同じレベルで「想像」することができないだけ”

なのではないかと。

普通なら想像できないようなことを、強烈にイメージしている。
だけど、なぜ、そうなるのかが全く理解できない。想像がつかない。

しかも、なんだかその新しい価値について語る姿に、
ある種の狂気みたいなものすら感じる。

それを見ると、周囲は思わず
共感をすっ飛ばして、

大丈夫かな?

ってなるんだと思うのです。本当に。

これ、

「無理じゃない?」でも、

「違うんじゃない?」でもなく、

「大丈夫かな?(頭が、思考が、その雰囲気が)」

が一番近いと思うのです。笑

良いかもしれないけど、
この人が言ってること、本当に大丈夫かな?冷静な判断なのかな?と。

もしこれが起業家の行動だとすれば、
これこそ、新しいものを実現するのに必要な「信念」であり「執念」です。誰も描けない未来を、強力な信念と執念で描いていく。

そこに冷静さは必要なくて、
むしろ異様なパッションがあったほうがよいこともあります。

大丈夫かな?を誤訳する悲劇

でも、ここにジレンマが生じます。
新しい価値を発信している本人に、この「信念」や「執念」がないと、
この「大丈夫かな?」を拡大解釈してしまうことがあるんです。

「無理なんじゃない?」に意訳しちゃったり
「ニーズないんじゃない?」と誤訳したりする。

ここ、ほんっとーーーに大事で、
軸がないと全部が、否定的な意見と誤解してしまう。

でもそうなると、そもそもの軸がぶれだして、おかしなことになるんです。
これじゃ本末転倒。

だけど、これって実は、新しいサービス、新しいキャリアの選択、
新しい生き方、とにかく新しいことをするときには、
全てに共通することではないか、と思うのです。

人は想像できないことに不安を覚える

例えば、転職をしようとするとき。
今までとは全く違う仕事へ、キャリアチェンジするときは、
たいてい、それまでの同僚は、難色を示したりします。

「え、そんなとこ行って大丈夫?」

みたいなリアクションはよくあると思うのです。

だけど、新しい転職先の人は、「素晴らしい挑戦だ!」と受け入れてくれる。

私の選択はどっちが正しいのだろうか?と思い悩む…。

でも、これも単純に、それまでの同僚は、その新しい一歩を歩んだことが
ないから、その未来が想像できないだけだと思うんです。

なぜなら、想像できていたら、多分転職しているからです。笑

私自信も、リクルートから全く畑違いの外資保険の営業職へ
転職した時は、同じ現象が起きていたな、と振り返って思います。

子供2人抱えて、全く畑違いの金融、しかも一度たりともやったことがない
未経験の営業職に転職を決断したのですから、周囲は前例がなさすぎて、
想像できない。

だから、そこに共感はなかったなぁと思うんです。

でも、不思議と、その保険をやめて起業したら、
その決断はすごく共感された。

これって、本質的には、想像の範囲を超えないことへの安心
でしかないのでは、と思うわけです。

つまり、
誰にでも共感される未来は、
”誰にも共感されない新しい一歩”から始まる

のではないかと。

共感は「手段」であって「目的」じゃない

だから、何か新しいことを始めるときは、
周囲の共感って必要ないんじゃないかと思います。
むしろないほうがいいんです。

あくまで共感というのは「手段」

一本の軸みたいな、絶対にぶれない強烈な想像の世界があって
その強烈な想像の世界と、現実のギャップを丁寧にわかりやすく
埋めていくこと。

それが「共感を生み出す」作業なのだと。

【新しいことと共感の関係性のイメージ図】

新しい価値そのものに、すぐに共感できるかどうかは、
あまり大事ではないと思います。

ストーリーが必要になるのも、そのギャップを埋めるのに
必要不可欠であるからです。

だから、

もし今、何か新しいことを始めようと思っていて、
周りの人から共感が得られなくても、
「心配してくれてありがとう!」の一言で大丈夫だと思います。

その人はきっと、応援していないわけでもなくて、
できないと思っているわけでもなくて、
ただ、あなたが心配なだけです

その道が本当に、自分が目指したい道なら、それでよいのです。

そして、その自分にしか見えない新しい世界に、本当にわくわくするなら

早くみんなも同じ世界が見れるように、

共感を生み出すプロセスを、
惜しみなく続ければよいのではないかと思います(^^)

まとめ

・共感されるかどうかは、周囲の「想像力の問題」
・否定しているのではなく”心配しているだけ”
・共感される未来は、「共感されない新たな一歩」から始まる
・共感は「手段」であって「目的」じゃない
・本当にその未来にワクワクするなら、共感なんて気にせず突き進め!

自分を信じて、新しい一歩を踏みだそー!

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